東日本大震災・原子力災害伝承館
〒979-1401 福島県双葉郡双葉町中野高田 39
福島大学 教授
後藤 忍
NPO法人ふくしま30年プロジェクト 理事長
佐原 真紀
後藤 忍 福島大学 教授
プロフィール
1972年大分県生まれ。大阪大学大学院工学研究科環境工学専攻修了。博士(工学)。2004年から福島大学共生システム理工学類教授、2022年より同教授。
福島第一原発の事故後、環境教育の観点から特に原子力・放射線教育に関心を持ち取り組んでいる。政府が発行した原子力および放射線に関する公的な副読本における「公平性」の問題に着目し、福島大学放射線副読本研究会を組織し、独自の代替案となる放射線副読本を作成。また、福島県環境創造センター交流棟「コミュタン福島」とウクライナ国立チョルノブィリ(チェルノブイリ)博物館の展示内容の比較なども行っている。著書に『みんなで学ぶ放射線副読本』。専門は環境計画、環境システム工学、環境教育。福島市在住。
伝承館の位置づけ
ー私などは、展示の内容の薄さや、語り部に東電批判を口止めする報道(*1) などで「どれだけ最悪の施設なんだろう」という前提で行ったので、思いの外内容があって、自分にとってそれなりには3.11を思い出す契機になった感触はありました。
後藤 伝承館はそもそも福島イノベーション・コースト構想 (*2) の一環として整備されています。あのようなメモリアル博物館が、復興に関する構想のもとに整備されるのは、スタート地点がおかしいと考えています。それはやはり、その位置付けでは「復興寄り」になってしまうことが最初から決まってしまうからです。
おのずと「事故を真摯に振り返って記録しよう」とはならず、「あそこからどう立ち上がったか」という、ある種の「サクセスストーリー」を最終的には訴えたいという結論ありきになってしまいます。起点そのものが違っていると思います。
また、福島県が原発事故の検証委員会を持っていない (*3) がために、事故の原因や教訓の総括ができていないことも問題です。「総括ができていないから、教訓も発信できない」という構図があります。また、独自の検証委員会がないとしても、ある程度オーソライズされている政府事故調や国会事故調 (*4) の報告書などの論拠を参照すれば、教訓を拾えるはずなんです。しかし残念ながら、その姿勢もまったく見えません。
ですから私は全体として、「教訓の焦点がちょっとずつズラされている」という印象を持ちました。関連する展示はあっても、肝心の福島県の責任についての展示や説明文がないからです。
とはいえ、約1年前に河北新報などのメディアに掲載していただいた私の指摘 (*5) から、いくつか反映して「展示に入れてもらっている?」と感じるものもあります。それは例えば安定ヨウ素剤 (*6) の展示とか、原発をずっと推進してきた広報誌である『アトムふくしま』の実物展示です。このように、評価できるものもいくつかありました。
しかしそこで、肝心の説明をどこまで書いているか。『アトムふくしま』にしても、「原発は安全」としていたページの紹介はなく表紙だけの展示で、肝心の部分が公開されていませんでした。
佐原 私、『アトムふくしま』の中身が読みたかったです。
後藤 普通、絶対そうだと思います。
他には例えばSPEEDI (*7) についても、一応紹介はしてはいました。でも、県がSPEEDIの情報をメールで得ていながら、実際に避難に活用しなかったことについての言及はありません。確かにそこの見解については政府事故調、国会事故調によって「使えたのか」、「使えなかったのか」の評価は違うんですが、いずれにしても受け取っておきながらメールを破棄して活用しなかった (*8) という事実は、県もHP上で公式の文章として掲載しているにも関わらず、説明されていません。
そのあたりの経緯や謝罪というものを飛ばして、むしろ逆に「SPEEDIは今、『使えないもの』として役目を終えました (*9) 」といった主旨の説明については結構な行数を使って書いていたりします。
ですからそれは、原発事故の教訓について総括できていないことが関係していると思います。あとはやはり裁判が確定していないということもあるかもしれません。今、事故から10年という段階で、国の責任、東電の責任について様々な訴訟 (*10) で争われていますが、付随して福島県の責任も確定していない中で、「できるだけ核心部分には触れたくない」という感覚が伝わってきました。そして、いろいろな批判がある中、それでも一応関連するものは展示に入れてみましたという印象を受けました。
伝承すべきもの
ー「伝承館」という館の名称からして、「伝承すべきものは何か?」という議論を喚起する性質があるかなと思います。しかし実際には伝承すべきものよりも、3.11から「立ち上がる」ことに焦点があたっている。
後藤 とはいえ事前に、1年半くらい前から「こういう施設になりますよ」という資料映像(「伝えたい、福島の記憶とみらい~アーカイブ拠点施設開所に向けて~」 [16分21秒。2019年3月11日公開] )がつくられていて、それを分析した時の印象から比べれば、まだ「復興色」は相対的に弱まっていたかなと感じています。
施設内には、背景の「黒い」エリアと「白い」エリアがありました。黒は原発事故について伝えるエリアで、白は復興について語るエリアなんですけれども、黒白はだいたい6:4というイメージでした。それは当然あるべき姿ですが、以前私が資料映像から分析してみた結果よりも、かなりマシではありました。
救助に入った消防の方の話や県、国の事故の最前線にあたった方々のインタビューも、各エリアの最初に何人かずつ出てこられていて、評価できるところももちろんあるかと思います。ただやはり、繰り返しになりますが、それらが結局のところ、ちょっとずつ核心がズラされているという印象でした。
ーそれもやはり、伝えるべき教訓が、人間の前向きな「復興に向かう姿勢」に転換させられてしまっているということですね。では具体的に、どこが足りなかったでしょう?
後藤 よく伝承館の担当者が言うのは、「ここに来た人は、震災と原発事故を『自分ごと化』して欲しい」ということです。それはもちろん立派で大切なことなんですが、肝心のその自分ごと化を、当事者である県ができていないということが一番の問題だと思います。
まず、福島県が自分ごと化して、当時「何ができて、何ができなかったか」という情報をきちんと検証して、その上でそれを教訓として伝えようということができていません。
だから安定ヨウ素剤についての説明も、これは政府事故調、国会事故調の報告書の両方に書いてあることですが、大きな教訓は「配布の指示が適切になされなかった」ということなわけです。にもかかわらず、せっかくヨウ素剤の実物を展示しているのに、本当に2行くらい、「大気中の放射性ヨウ素濃度の条件により服用します。甲状腺への放射性ヨウ素の影響を低減する効果があります」という説明で終わってしまっています。まるで他人ごとのような説明です。原発事故当時どう使われたのかということは、情報としてまったく記録されていません。これはとても象徴的な例だと思います。
あるいは、私がずっと繰り返し指摘している「元の地盤高、原発の敷地高、津波の高さ」に関する説明があります。「『なぜそこに原発があって、しかもなぜ海面から10 mの立地だったのか』というところから始めるべき」というものです。
もともと30 mを超える海岸段丘だったところを、わざわざ20 m以上削って、海面から10 m の敷地に原発を建てました。そこに津波が来て、展示では高さ13 mとなっていましたが、それを受けた原発は耐えられなかったと。しかもこれはまさに裁判で争われているように、東電の子会社が2008年に15.7 mの津波の予測をしていたとか、福島県の2007年の予測は5 mだったとか、事実として指摘できる高さ表示はいろいろあります。
そういった事実は、別に裁判が確定していなくても、誰がどの時点でどんな数字を出してきたかというのは、確実に展示にできることです。福島第一原発の敷地高は、女川原発との明確な差でもあり、あそこは14.8 mと比較的高い敷地に建設したからなんとか津波に耐えられた、といった文脈に繋がっていくわけです。そういったところの教訓がまったく展示されていませんでした。
当事者としての福島県
後藤 それから大きなこととしては、県自身がどのように原発の推進に関わってきたのかについての情報です。
それは例えば、事故前の県の総合計画などでも「地域振興の手段として原発を位置づけていた」と読みとれる文章があって、それを慌てて2011年度に一部、2012年度に全体を改定したという経緯もありました。あとは、原子力に関する教育や広報のために行っていたイベントなどですね。国が開催していた原子力ポスターコンクールの作品の展示などはとてもいいと思ったんですが、県自身も他に「原子力を考える」事業での絵画・書道展やイベント、「ふれあいの広場」の開催などいろいろやっていたはずなのに、それらにもまったく触れられていません。
あとはオフサイトセンター (*11) が、本来は「こういった事態を想定して準備されていたものが結局機能しなかった」という、そういった説明も全然足りないと思いました。
先ほどのSPEEDIの情報がどうだったのか、矛盾するような展示もありました。
それは、インタビュー動画に出てくる福島県原子力センターの職員(当時)の方が「SPEEDIの情報が入っていれば、、」という主旨のことを語っている箇所です。この点について、先ほど指摘したように、かたや展示の説明文には「SPEEDIは役に立たない」といった説明がなされており、矛盾しているわけです。
以上のように、事故に関連する展示説明や実物展示はところどころいい点も見られますが、それらにまつわる福島県自らの責任、そしてそれを自分ごと化し、反省して展示するという、メモリアル博物館に本来求められる反省的考察がまったくできていないのです。
この点について例えば、水俣病に関する水俣市立水俣病資料館では、かなり大きく市長の謝罪の言葉が展示されています。「充分に役割を果たし得たのだろうか,あの時こうすればよかった,こうしなければならなかったのではという反省の念を禁じえません。水俣病で犠牲になられた方々に対し,充分な対策を取り得なかったことを,誠に申し訳なく思います」といった言葉です。
伝承館にはそういった姿勢がまったくないことから、「一番他人ごと化しているのが県ではないか?」という感想を持たざるをえません。それにも関わらず、来た人には「自分ごと化してね」というのは、あまりに一方的かなと思います。
ーせめて地域に頼られる行政であるべきところが、どこを見て判断基準としているのか、わからない。
後藤 伝承館にはそもそも予算として、国から53億円という大きな予算が出ています。それを原資として県が施設や展示を整備した流れになります。ですから、そこには一定の忖度も働いたのかなという気もします。
欠けたもの
ー佐原さんはどのような感想でしたか?
佐原 どちらかというと、廃炉資料館 (*12) の方が反省の色があったかなと思います。あれだってもしかしたら「反省のフリ」だったのかもしれませんが、本気かどうかは別として、思っていたよりも展示の中で謝っていることに驚きました。
後藤 廃炉資料館における「謝罪のポーズ」は確かに感じられます。ただ「では東電はそれを裁判で踏襲しているのか? (*13) 」というと違うことが多々あります。
佐原 裁判では「絶対認めない」と言っておきながら、展示の中では「誠心誠意賠償します」ということを言っていたりする、とはいえ、そこにはせめて「ポーズ」があるわけです。かたや伝承館には、その「ポーズすらないんだな」ということを感じました。
ー他には、何が伝承館に足りないと思いましたか?
佐原 施設内部は想像以上に広かったのに、後藤先生のおっしゃるように、安定ヨウ素剤はただポンと一つ置いてあって、説明文が小さなカード程度のものでした。それで、スタッフの方に「この説明はなんでこんなに短いんですか?」と聞いたら、「スペースが足りない」という答えだったんです。案外空きスペースもいっぱいあるし、展示の仕方によって如何様にも変えることができそうなのに、そこはとても残念に感じました。
ーまだ展示はスタート地点であって、今後どんどんアップデートされていくというようにも聞いています。
佐原 そのようですね。
後藤 担当の職員の方も、コメントとして「これからです」ということはおっしゃっていました。
佐原 たしか、「どうか、今はまだ生暖かい目で見てください」と(笑)。
後藤 (笑)。
スタッフの方には、私たちが展示を見ながらいろいろと感想をお伝えして、その受け答えの中で出てきた言葉でした。
佐原 有名な「原子力 明るい未来の エネルギー (*14) 」という標語のアーチ型看板は、実物が展示されていたらなと思います。現物の代わりに、写真しかありませんでした。
後藤 「大き過ぎる」ということが、県側の説明ではありました。
佐原 入口のスペースもあんなに大きいのに、せっかくだから反省の気持ちも込めて、そのまま置けばいいのにと思いました。
後藤 小学生の頃、地域の標語コンテストであの言葉を発案された大沼勇治さんは「館内がダメなら外でもいいじゃないか」とコメントされていました。それは双葉町の伊澤町長ですら、「現物を展示して欲しい」ということをおっしゃっています。
文字部分はすべて県立博物館が保存していると聞いています。伝承館にも収蔵庫があるので保管可能でしょう。アーチ部分は双葉町のもともとあった場所の脇に、シートだけかけられて放置されています。伝承館としては、今後バックヤードツアーという企画をするという話もあるので、そこにいずれ諸々の品が集められてくるのかもしれませんし、現時点でも24万点もの収蔵物があるとされています。
洩れ落ちる記憶
後藤 私の場合は、展示について事前に新聞記者の方々から情報などをもらっていて、「こんな感じかな?」とイメージしていた部分があり、そこは実際に展示を見てもあまり印象の違いはありませんでした。ある意味で確認作業のようなところもありました。あとはやはり「人の死に関する情報がない」ということは感じました。
震災関連死についての情報は、本当に数字だけ、2千何百人という、それが地震・津波の直接の犠牲者とは別に記されているだけでした。これが例えばウクライナのチョルノブィリ(チェルノブイリ)博物館では、福島の原発事故を扱った展示スペースにおいて、震災関連死のご遺族で、川俣で焼身自殺された奥さまの旦那さまが、奥さまの遺影を持って仏壇の前に座っている写真が展示されています。
そういった展示が、ウクライナのチョルノブィリ(チェルノブイリ)博物館まで行けば見れるけれども、福島のコミュタン(福島) (*15) にはもちろんありませんでしたし、期待していた伝承館にもなかったということです。
具体的に私が確認できたのは、JCOの臨界事故 (*16) を説明するパネルで「作業員2名が死亡」という文が少しあるのと、映像展示のパートで、たぶん双葉の病院だったと思いますが、「たくさんの方が亡くなりました」という説明くらいでした。使用されているのは避難状況の写真で、やはり死を直接想起させるものではありませんでした。
でも、例えば白河にある原発災害情報センター (*17) には、自殺された方が壁にチョークで書き残した、有名な「原発さえなければ (*18) 」という言葉が書かれた壁の実物があります。そういったものに相当する、人々を死に追い込んだ事象を教訓として発信することは、できるはずなんです。
でも伝承館にそういうものはなくて、全体として人の死を感じない展示でした。
ーそれにしても、全体としてなんとも、すっきり納得できる状況ではありませんね。
後藤 個人的には、これはちょっと違うかもしれませんが、映画『Fukushima 50 (*19) 』の評価と同じような感覚を持ちました。つまり、詳細をあまり知らない人にはいい施設なんですが、事情をよく知っていて問題点が見えている人にとってはすごく「偏った」、「焦点がボケている」、「ズレた」施設なんです。
だから評価は総じて、県外の、何も知らない人から見ると「原発事故についてよく分かった」と好評で、県内の事情をよく知る人が見ると「重要なことが何もないじゃないか」となるんだなと思います。
しかもそれはまだ、リアルタイムにあの事故を経験して、いろんな問題があるということを知っている人が多いから「ああだ、こうだ」と指摘できるわけです。でも、歴史がくだればそもそも「知らない人」が増えていくわけで、数10年先を見越した時に重要な教訓が洩れ落ちていくことを危惧しています。
まだこれだけ経験者が多くいて、今だからできることがあるはずなのに、あえて今の段階から、網の目からポロポロと重要な教訓を落としていくようなそのやり方を、何とか食い止めねばと思うんです。
世界の目に晒す
ー日本という国について、これは先の大戦についてもよく言われることですが、「総括をしない」国民性が強いとされています。
後藤 おっしゃる通りです。それはすごく感じます。
佐原 原発事故後の話をする上で、国や電力会社がそれでも原発政策を推進していくには、福島は復興における「いい例でないといけない」ということが基本にあると思います。ここは復興の、「成功したパターン」でないといけないんです。
後藤 一応福島県として、「原発に依存しない社会を目指す」ということは知事も言っていますし、県の復興ビジョンや環境基本計画でも同じように言ってはいます。では、そういう立場からの展示があるかというと、ほとんどありません。
伝承館の展示でも例えば最後の方で、ドイツでは福島の事故後に脱原発の方針を出して、そちらに舵を切って「これだけ進んでいます」ということを紹介してもいいと思うんです。でも、そういったことも全然ありません。
やっぱり自分で責任を引き受けないというか、「世界へ発信する」と言っておきながら世界が見えていないというか、いかにも「地震、津波、原発事故が一気に起きたのは福島だけです。見て、見て」という展示ばかりで、相対化ができてないということに尽きます。
戦争についても、先月に平和博物館の国際会議があって、私もコミュタン福島のことなどを発表しました。そのような場で世界の人々の議論を聞いていると、なぜ日本は「国立の戦争博物館をつくっていないんだ?」、「なぜ広島、長崎の博物館で、アジアに対する侵略行為を説明しないんだ?」といった議論が多く見られました。
ー至極まっとうな議論に感じます。
後藤 ですが、それも本当にそういった限られた場でしか議論にならない。社会全体としての問題意識があれば、国立の戦争博物館も実現すると思います。
これもドイツでの例ですが、ホロコースト (*20) の犠牲者のための大掛かりな記念碑を国会議事堂のすぐ近くにつくっています。これは日本で考えれば、日比谷公園あたりに南京大虐殺 (*21) の犠牲者の慰霊碑をつくれるかという話で、現状では絶対につくれません。
そのあたりの差がなぜ生まれたのか。端的に言えば「責任をとれない国民性だな」という風に思います。それでは長い眼で見て、信頼を得られないと思うんです。自分で反省できない、責任をとれないでは、いつまでも世界から支持や評価はされないんじゃないでしょうか。
ー世界の方々が、これではせっかく伝承館を見ても、拍子抜けでしょうか。
後藤 いえ、先ほど言ったように、予備知識がない人にしてみれば今の伝承館でも「なるほど。勉強になった」と思ってしまうのかなという気もします。
もちろん、世界の目に晒されることは重要です。
私がチョルノブィリ(チェルノブイリ)博物館に行って見たのは、世界で過去に起きた原発事故を世界地図に置いてどこでいつどんな事故が起きたかを可視化している展示でした。そういったものも、伝承館にはありません。国内の原発分布図や、そこで事故が起きたら地域の被害はどうなるかというような、そんな言及も皆無でした。
悲しいかな、伝承館にあったのは「福島のことを知ってね」という展示ばかりでした。受け手が事故を自分ごと化できる情報発信はできていない。肝心の教訓が展示されておらず、自分ごと化を支援する相対化もできていない以上、ここにある知見がその後の世界に役に立つということはないのではないかと思います。
ーもう、これは、展示を総とっかえしましょう、、!
後藤 そうですね。私に設計させてもらいたい、それくらいの気持ちです。
ドイツの先例 -記憶の文化-
ーすでにやられている具体的な施策や、そのためにしようと思っている有効だろう取り組みはありますか?
後藤 正直、具体的にはちょっとありません。しかし研究者としては、例えばドイツのホロコーストの記憶を残していこうという「記憶の文化」とも呼ばれる取り組みなどを参考にしながら、提案できないかと考えています。
やり方としては、メモリアル博物館の建設のほか、アートと融合して街中に分散型展示を残していくなどの多様なアプローチがあります。
例えばベルリンのシェーネベルク地域のバイエルン地区には、当時のユダヤの人々に課せられていた規則を小さな看板に書いて、普段誰もが歩く歩道のちょっと高いところに掲示しています。
当時ユダヤ人が出歩く時間帯を制限していた規則について、時計の絵と共に看板に書かれて時計屋さんの前に設置されていたりします。できるだけ現代社会と記憶を結び付けるような工夫が行われているわけです。そのようなユダヤ人差別を記録する看板が同地区には80枚、街中に展示されています。このプロジェクトは住民の働きかけによってコンペを行い、芸術家との協働でかたちになったと聞きました。
あるいは「つまずきの石」というプロジェクトがあります。
これも芸術家の構想によるもので、ホロコーストの犠牲者の名前などを刻んだプレートを石のブロックをつけて、その人が最後に暮らした住所の地面に埋め込んでいくという取り組みです。誰でも石の「保護者」になることができ、費用は一つ120ユーロ(15,000円強)で、埋めるだけでなく石の管理に責任を持つことが求められるそうです。2018年8月現在、ヨーロッパ20カ国以上の約2,000カ所で7万個以上の石が埋められているとのことです。
そういうアプローチを参考にしつつ、洩れ落ちそうな情報も大切にして、記録することができるのではないかと考えています。
例えば福島だったら仮置き場とか除染のために、いろいろな場所が削られています。福島市では、街のシンボルである信夫山も削られました。このような原発事故が残した爪痕を記録する取り組みです。「汚染土壌を運び出して現状復帰したら何事もなかったかのようにもう終わりですか?」と。「そうじゃないやり方もあるんじゃないですか?」と。
「当時は、シンボルの信夫山もこんな状況だった」というようなパネルを残すとか、「そういった取り組みをなんとかできないものか?」などと考えたりしています。
もちろん王道は、伝承館のような拠点施設で教訓の核心部分を記録し伝えることです。その上で、洩れ落ちてくるものに対してはいろいろなアプローチが考えられて、その時こそ市民にできることがあるんじゃないかと思っています。
ドイツの「記憶の文化」についても、かなりの空白の時間があって、だいぶ時間が経ってから取り組みが始まり、記憶を掘り起こしていってようやく可能になった部分がありました。でも福島なら、まだまだ記憶できている人がいっぱいいらっしゃいます。ですので、それほど「掘り起こし」作業が大変ではないのではないかと思うんです。
子どもたちへ
ー佐原さんは今市議というお立場で、何か動き出したいこと、やりたいことは?
佐原 伝承館は、「複合災害の記録と教訓を将来に引き継ぐ」というテーマを掲げているのに、教訓を将来に引き継ぐことが全然できていません。あれは県立の施設なので県議としては意見できるかもしれませんが、「市議としてできること」と考えると、実は福島市内にも震災の記録を展示するスペース (*22) ができています。
現在その第一クール目なんですが、今後第2、3クールと続いていく予定で、それは福島市としての取り組みです。本当は開催されていたはずのオリンピックに向けて県外、国外の方々に向けた展示の予定だったものが、文教福祉常任委員会の中で、行政からの一方的な展示ではなく、やはり市民の意見、そしてどう復興して頑張っているかだけではなく、辛かったことの記録も残していくべきだという意見はしました。
それで、「一般の方々から想いや意見を募ろう」ということにはなったんですが、まだ第一クール目にはそれが反映されていません。その今後の展開が気にはなりつつ、残念ながら福島市議として、伝承館についてはできることはないんです。
ー10年経つこのタイミングで、3.11後に生まれた子どもにとっては、事故直後の生きるか死ぬかという一連の騒動が風化というか、もっと根本から別次元の話になってきています。そのあたりについて、市議というよりは母の目線で、何かありますか?
佐原 数年前、市内の小学校4年生に「原発事故があったことを知ってる人?」という質問をしたら、4割しか手を挙げませんでした。彼らは2、3歳の頃に震災があって、なんとなく子どもの頃に「強い地震があったらしい」というくらいの記憶で、原発事故について知らないんです。
ただ幼稚園、小学生になっていく過程で、家によっては親が「土は触らないで」とか、長期の休みになれば保養に行って「ここなら自由に遊んでいいよ」ということを伝えていれば、そういった家庭の子どもだけが放射能の存在を知っていて、それ以外の子どもは知らないと。
福島で生まれ育って、大学生や社会人になって県外に出る時に、福島で当時「何が起きて、どういう流れがあったか」ということをまったく知らないという状況に、すごく問題を感じています。そこについては、「ちゃんと伝えないといけない」と思います。
とりあえず小学校5、6年生の社会科見学で「コミュタンに行く」というのは決まっていて、でもあそこだって、伝えることがまったく足りていない施設なわけです。放射能防護についてだってゲーム感覚だったり、そこだけ見せて「わかってください」ということがそもそも無理なんです。
後藤先生は子どもたちに、どのように伝えるべきだと思いますか?
後藤 私自身が取り組んできたのは、例えばJCO臨界事故における高線量被ばくによる死のことや、子どもの被ばく感受性についてきちんと伝えようということが挙げられます。これを福島の事故について言えば、佐原さんのおっしゃる通りかなと思います。
伝承館には、「世界からいろいろな支援の手が差し伸べられた」という展示がありました。でもそういった保養の話や、国内だけど県内の親御さんがどう動いて県外からどんな動きがあったかなどについて、展示がとても少ないと思いました。
佐原 特に、子育て中のお母さんの苦悩はありませんでした。
ーそういったことの象徴と言える、甲状腺がんについての言及もありませんでした。
後藤 ないんです。一応、県民健康調査 (*23) に関する展示はありますが、調査結果として、甲状腺がんがどのくらい見つかったのかということまでは説明していません。
佐原 それについては、県民健康調査検討委員会で出している資料プラス、それに対して出た意見も両論併記して欲しいと思っています。現状では、「原発事故由来とは考え難い」となっているだけなので、その理由や反対意見も必要だと思います。
語り継ぐこと
佐原 語り部さんが、「国や東電を批判するようなことを言っちゃいけない」という風に決められているということも、問題だと思っています。それは事前から各種の報道で聞いて、皆さん知っていることかと思います。
だって、それがなくて「何が話せるの?」という疑問が頭に浮かびます。実際にはもっと「こうして欲しかった」、「何がどう大変だった」という話だらけなはずなんです。
語り部の方で、私たちに付いてくれた2人目の方は世代も同じくらいの女性だったと思います。事故当時ちょうど子育て中だったお母さんで、3.11の日はお子さんの中学校の卒業式で、その帰りに震災にあって、子供が無事だったのはよかったけれど、その後避難所ですごい辛かった経験などについて話してくださいました。
それで質問の時間に、あえて「行政がもっとこういう風にしてくれたらよかったのにという点は?」ということを聞きました。そうしたら、「まったくそれはないです」と。あの時避難所でも皆さんよくしてくださって、「何ら不満はない」というお答えでした。
一言で「行政」と言っても、現場に来てくださっている当時の避難所スタッフだって家族がいるだろうに、それでも自分たちのケアをしてくださったことについては感謝しかないということはすごくわかります。でも私自身が投げる質問も、もうすこし伝わる言葉やその答えがあればという風に思いました。
ー現場の方はたいてい、それが東電だろうが経産省だろうが真摯で誠実で、問題はもっと私たちに見えない、届かないところにあるような気がします。
後藤 福島の原発事故は、これは国会事故調も言っていますが、人災として捉えています。そして人災には必ず加害者がいます。
ですからその「加害者」の責任をあぶり出したり、問題点を伝えたり、教訓を共有するのが本来の人災に関する語り部の役目だと思うんです。でも私たちに話してくれた語り部の方々は、話を聞いていても自然災害、天災の被害を語っているような印象を受けました。降って湧いた災害で、準備不足から避難所などで困ったことが起きて、そこで温かな人の支援があって、おかげでとても助かったという話で終わっています。そこに「人災という認識」がありませんでした。
私はそれでは、例えば「こういう点で権利侵害を受けた」とか、「問題の根幹はここにある」といった教訓を伝承できないと考えています。その語り部の方が、最終的に「みなさんに伝えたいこと」として話してくれたのが、「いざという時に避難できるものを準備しておきましょう」という提案でした。さすがに、これだけのことが起きて、それを経験した上での教訓として「それはちょっと、、」というか。
佐原 その教訓が、将来に受け継ぐべきメッセージかというと、誰でも言える。
後藤 ということで、語り部の方についてもちょっと残念でした。
また別の語り部の方は学校の先生で、震災時の教室の様子とか避難の大変さを話してくださいました。最後のところでは、「ちょっと話は変わりますが」と言って、たしか陸前高田の例だったと思いますが、その方も現地に行かれて、津波の教訓を伝える展示で、津波の高さがすごく上まで届いていたことがわかって、「私はそれがすごく印象に残っています」という紹介でした。でも、それで話が終わってしまうんです。
もっと、学校では事故前に訓練でどんなことが行われていて、何が役に立って、何が役に立たなかったとか、「こういうことを教えておきたかった」という反省。あるいは、もし、津波の高さ展示が印象に残っているのなら、それを伝承館でも展示のかたちで実現させようという提案、そういったことが話せるのではないかと思います。
しかし、そのような気概は感じられませんでした。そして、やや委縮されているのか、こちらから少し踏み込んだ質問をしても困られてしまって、代わりに職員の方が対応する有様でした。既に朝日新聞等で報道されている通り、語り部の発言に規制がかかってしまっているがゆえに、人災ならではの教訓が語れないし、聞き手にも伝わらない、そういう構図を感じました。
受け継ぐこと
ー悲しいことですが、本質的なことが何も伝承されない、今後また起きるかもしれない原発事故で活かされることが何もない伝承館ということですね。
佐原 足りな過ぎるんです。
先ほど話に出た映画『Fukushima 50』の時、映画館で私の席近くにいたカップルが終わった後、口から出た第一声が「アメリカ、かっけえ~」で驚いたことがありました。それと同じ構図になってしまっているというか、伝承館は事故についてまったく知らない方がざっくり流れを感じるくらいにはいいかもしれませんが、私としては「何が足りないのか発見することを目的に行ってください」くらいでオススメしたい施設です。
ー『Fukushima50』で思い出されるのは、実は4号機の燃料プールが最大の危機で、もしあれが崩壊していると東日本はすべて沈んでいたかもしれないという、シリアスな危機にも当然触れていない。
後藤 私が常に言ってきているのは、「最悪のことを示すべきだ」ということです。福島の事故は酷かったけれども最悪中の最悪ではなく、「あれだけで済んだ」と言える面も多分にあったわけです。
そこで、じゃあ「もし最悪だったらどうだったのか」ということも伝承しないと、逆に「この程度か」と思われてしまいます。実際に放射性物質は太平洋側に8割くらいが流れていってくれたおかげでこの程度の汚染で済んだわけですし、当時の原子力委員会の近藤駿介氏 (*24) が、「最悪で3000万人を避難させなければいけない」というシナリオを出していたとか、事実として言えることはあります。でもそれらが全然伝承されていない。
「幅がある事象」に関する展示では、常に最悪のことには触れるべき、説明すべきというのが私の考えです。
それは、人の場合であれば「死ぬこと」だし、事故については「想定しうる最悪の事態はこれだった」ということになります。
佐原 福島の原発事故は、まさに「まぐれでこれだけで済んだ」ということを、知って欲しいと思うんです。
後藤 はい。大事なところは、そこなんです。
※1
朝日新聞は、非公開で行われた展示物有識者委員会の議事録が黒塗りであること、また、語り部に対して国や東電への批判が禁止されていることを報道し、伝承館の問題点を指摘しました。以下、報道された記事三件を記します。
「震災伝承館どう展示、議論非公開 議事録黒塗り」朝日新聞(2020年8月25日付)。
「伝承館開館、展示されぬ教訓多く 内容更新求める声も」朝日新聞(2020年9月21日付)。
「国や東電の批判NG? 伝承館語り部に要求、原稿添削も」朝日新聞(2020年9月22日付)。
※2
福島イノベーション・コースト構想は、東日本大震災及び原子力災害によって失われた浜通り地域等の産業を回復するため、当該地域の新たな産業基盤の構築を目指すものです。
出典: 福島県ウェブサイト 福島・国際研究産業都市(イノベーション・コースト)構想 より引用。
強制避難区域となった双葉郡各自治体の農畜産業が壊滅的打撃を受けたことを踏まえて、新規にハイテク産業都市を構築することで、原発事故の直接の被害を受けた地域の復興を狙って立案されたプロジェクトです。しかし、住民の民意を反映しない施策のためか、2014年6月にまとまった構想にもかかわらず県民への周知は進まず、福島県が行った令和2年度福島県政世論調査における福島イノベーション・コースト構想についての認知度は76.8 %と、6年が経過してようやく4分の3を超えたところです。
出典: 福島県ウェブサイト 県政世論調査 より引用。
※3
福島県は、原発事故の当事者となった広域自治体として未だ検証委員会を立ち上げていません。これとは対照的に、新潟県は県内に立地する東京電力柏崎刈羽原発の安全に供するため、泉田裕彦知事(当時)の要請で、2012年から「新潟県原子力発電所の安全管理に関する技術委員会」が福島第一原発事故の検証を開始しました。同委員会は2016年2月に、事故当初に炉心溶融と発表しなかったのは炉心溶融の定義がなく判断できなかったためという東京電力の説明は誤りであり、事故当時の社内マニュアル「原子力災害対策マニュアル」に炉心溶融の判定基準が明記されていたことを突き止めました。
出典: 新潟県ウェブサイト 東京電力 HD・新潟県合同検証委員会 検証結果報告書(概要版)より引用。
より。
※4
政府事故調の正式名称は「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」で、内閣官房に設置されていました。国会事故調の正式名称は「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会」で、東京電力福島原子力発電所事故調査委員会法に基づき国会に設置されていました。
※5
「復興に歩むという『挑戦』のストーリーを強調したい雰囲気。被災者の苦境をありのまま『教訓』として伝える姿勢に乏しく、展示内容も似た傾向になる恐れがある」と後藤氏は警鐘を鳴らす。
出典: 「『復興』強調?来年完成の原子力災害伝承館 展示内容に専門家も疑義」河北新報(2019年9月14日付)より引用。
※6
stable iodine pill. 原子力施設等の事故に備えて、服用のために調合した放射能をもたないヨウ素を安定ヨウ素剤という。ヨウ素は、甲状腺ホルモンの構成成分として必須の微量元素である。甲状腺にはヨウ素を取り込み蓄積するという機能があるため、放射線事故で環境中に放出された131I (放射性ヨウ素)が呼吸や飲食により体内に吸収されると、甲状腺で即座に甲状腺ホルモンに合成され濃集し、甲状腺組織内で放射能を放出し続ける。その結果放射能による甲状腺障害が起こり、晩発性の障害として甲状腺腫や甲状腺機能低下症を引き起こすとされている。これらの障害を防ぐためには、被ばくする前に安定ヨウ素剤を服用し甲状腺をヨウ素で飽和しておく。この処置により、被ばくしても131Iが甲状腺には取り込まれないので、予防的効果が期待できる。ヨウ素剤の効果は投与時期に大きく依存し、被ばく直前の投与が最も効果が大きい。
出典:JAEAウェブサイト 「原子力百科事典サイトATOMICA」安定ヨウ素剤 より引用。
※7【SPEEDI(スピーディ)】
正式名称は「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(System for Prediction of Environmental Emergency Dose Information)」。
SPEEDIは、原子力発電所等の原子力施設において大気中への放射性物質の放出が予想される事故が万が一発生した場合に、施設周辺地域への影響を計算機により迅速に予測計算し、避難対策の策定・実施に役立つ情報をいち早く提供することを目的としている。
出典:JAEAウェブサイト 「原子力百科事典サイトATOMICA」SPEEDI(スピーディ)より引用。
しかし、福島第一原発事故ではSPEEDIの計算結果は自治体には伝達されず、住民の避難に活用されることはありませんでした。
※8【メールを破棄して活用しなかった】
福島県の調査により、県防災対策本部単独ではSPEEDIの予測結果を活用しないので、その取り扱いについての規定がなかったこと、そのため、職員が受診メールの容量制限(25MB)を前にして、SPEEDIの試算結果を保存せずに削除したこと、そのうえで上司に報告せず、また上司も確認していなかったことが判明しました。
出典: 福島県ウェブサイト「 SPEEDI電子メールデータ削除問題」より引用
また、「福島県、メール削除で職員処分 放射性物質拡散予測」共同通信(2012年4月26日付)によると、これらの調査を踏まえて行われた職員の処分については、災害対策本部事務局次長(当時)ら2人を書面訓告処分、メールを削除した男性職員2人は厳重注意にしたとあります。
※9【SPEEDIは今、『使えないもの』として役目を終えました】
福島第一原子力発電所事故の教訓として、原子力災害発生時に、いつどの程度の放出があるか等を把握すること及び気象予測の持つ不確かさを排除することはいずれも不可能であることから、SPEEDIによる計算結果に基づいて防護措置の判断を行うことは被ばくのリスクを高めかねないとの判断によるものである。
原子力規制委員会サイト 緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステムの運用について より引用。
2014年10月に原子力規制委員会は、福島第一原発事故の教訓を生かすとして緊急時における避難等の判断には、SPEEDI による計算結果を使用しないとする通達を出しました。
※10【様々な訴訟】
東京電力の旧経営陣3人を検察審査会の議決によって強制的に起訴した刑事訴訟や、国と東京電力の責任を問う集団訴訟が全国で30件以上起こされています。
※11【オフサイトセンター】
オフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設)とは、原子力施設の緊急事態時において、事故が発生した敷地(オンサイト)から離れた外部(オフサイト)で現地の応急対策をとるための拠点施設のことである。この設置は、平成12年(2000年)6月に施行された「原子力災害対策特別措置法(法律156号)」で規定され、原子力施設で緊急事態が発生した際には、国、都道府県、市町村及び事業者の防災対策関係者が集合して、「原子力災害合同対策協議会」を組織し、連携の取れた応急対策を講じていく拠点となるものである。
「原子力百科事典サイトATOMICA」より引用。
※12【廃炉資料館】
正式名称は「東京電力廃炉資料館」。この施設は、東電が原発のPR施設として富岡町に開設した東京電力福島第二原子力発電所エネルギー館を既存展示品も含め流用したもので、2018年11月30日に開館しました。原発事故の記憶と記録、そして反省と教訓を発信するために、福島第一原発が炉心溶融に至った経緯や、当時の社内関係者の証言や反省の弁を述べるビデオ等を公開しています。ちなみに建物の外観は旧エネルギー館から変わっておらず、そのデザインはアインシュタイン、キュリー夫人、エジソンの生家がモデルとなっています。
※13【裁判で踏襲しているのか?】
東電は自社サイトの「福島への責任」 https://www.tepco.co.jp/fukushima/ 内の賠償ページにおいて、被害にあった住民が早期に生活再建ができるように「最後の一人まで賠償貫徹」「迅速かつきめ細やかな賠償の徹底」「和解仲介案の尊重」の3つの誓いを掲げています。しかし、実際の裁判では原発事故が想定外の地震と津波によるものとして東電は責任を認めず、原告側の住民に寄り添う姿勢は見られません。
※14【原子力 明るい未来の エネルギー】
1987年に、双葉町が原子炉増設の機運を高める目的で標語を町民から公募したところ、当時小学校6年生だった大沼勇治さん考案の「原子力 明るい未来の エネルギー」などが採用されました。双葉町はそれらの標語を町の中心部の看板として設置していき、「原子力 明るい未来の エネルギー」の看板は1988年に商店街の入り口に掲げられました。原発事故後、2015年3月に双葉町は老朽化を理由に看板撤去を発表、このとき、大沼勇治さんは負の遺産として看板を現場保存すべきと反対を表明し署名活動を進めました。しかし、町が方針転換をすることはなく、同年12月から翌年1月にかけて看板は撤去されました。
そして、伝承館開館後に「原子力 明るい未来の エネルギー」の看板を展示するように希望する声が多数寄せられたことを受け、福島県が現物展示へと方針を変更したことが、「原子力広報看板 双葉の伝承館へ 福島県方針」 福島民報( 2021年1月5日付)として報じられました。
※15【コミュタン福島】
福島県環境創造センター交流棟(愛称:コミュタン福島)は、県民の皆さまの不安や疑問に答え、放射線や環境問題を身近な視点から理解し、環境の回復と創造への意識を深めていただくための施設です。
福島県環境創造センター 交流棟サイト コミュタン福島について より。
コミュタン福島は、福島県田村郡三春町に建設された福島県環境創造センター内にある交流棟の愛称です。同センターは福島県が2012年に基本構想をまとめ、その後2016年7月に全館が開所しました。交流棟以外に本館、研究棟の2つの棟があり、他に4つの関連施設から構成されています。また、施設全体の総工費は約100億円で、運営費には年間9億円があてられています。
「放射線や環境、福島で学ぼう 環境創造センターが全面オープン」日本経済新聞(2016年7月22日付)より。
※16【JCO臨界事故】
東海村JCO臨界事故。 1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村に所在する住友金属鉱山の子会社の核燃料加工施設、株式会社ジェー・シー・オー(JCO)が起こした原子力事故です。濃縮ウランの加工作業中、核分裂が継続して起きる「臨界状態」が発生し、近くにいた作業員2名が推定6~20 Sv(シーベルト)もの放射線を浴び死亡しました。この臨界事故により、日本国内で初めて、事故被ばくによる死亡者が出たことになります。また、Svとは生体の被ばくによる生物学的影響の大きさを表す単位です。全身に10 Svの放射線を浴びた場合、1~2週間でほとんどの人が死亡すると言われています。
※17【原発災害情報センター】
原発災害情報センターは、NPO法人アウシュヴィッツ平和博物館が運営する同博物館の敷地内に建てられた施設で、市民の有志により計画が立ち上げられ、世界中からの寄付で設立されました。第一原発事故を市民の力で風化させないことを目的に、公立の博物館では展示されないような教訓を市民の目線から記録していこうという「志」から生まれた施設です。
※18【原発さえなければ】
2011年6月11日、相馬市で酪農を営んでいた50代の男性が首を吊った状態で発見されました。自殺をしたと見られ、堆肥舎の壁のベニヤ板には、「原発さえなければと思います。残った酪農家は原発にまけないで頑張って下さい。仕事をする気力をなくしました」という書き置きが残っていました。
「『原発さえなければ…』酪農家の男性自殺か 福島・相馬」朝日新聞(2011年6月14日付)より。
※19【Fukushima 50】
2020年3月6日公開の日本映画。原作・門田隆将「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」、監督・若松節朗、主演・佐藤浩市 渡辺謙。
製作代表の角川歴彦氏は、「来たる2020年、“復興五輪”と銘打たれた東京オリンピック・パラリンピックを控えたこの時期にこそ、今一度、震災の記憶と向き合い、復興への思いを新たにする作品を世に問う、それこそが映画人の使命であると考えております」と述べました。「佐藤浩市&渡辺謙、福島第一原発事故“最前線”で戦う! 映画『Fukushima 50』製作決定」映画.com (2018年11月20日付)より引用。
※20【ホロコースト】
ホロコーストとは、ナチス政権とその協力者による約600万人のユダヤ人の組織的、官僚的、国家的な迫害および殺戮を意味します。「ホロコースト」は「焼かれたいけにえ」という意味のギリシャ語を語源とする言葉です。1941年から1944年にかけて、ナチスドイツ当局は数百万人のユダヤ人をドイツ、占領地区、多くの枢軸国からゲットーや絶滅収容所に移送し、そこで特別に開発されたガス施設にて彼らを殺害しました。
The Holocaust Encyclopedia 「ホロコーストについて」より引用。
※21【南京大虐殺】
南京事件。日中戦争が始まって5カ月後の1937年12月13日、旧日本軍が中華民国国民政府の首都だった南京を制圧し、捕虜や一般市民を殺害するなどした。犠牲者数を中国側は「30万人」と主張する一方、日本側の研究者は「4万〜20万人」などとする見方が多い。
朝日新聞(2012年7月18日付)より引用。
※22【震災の記録を展示するスペース】
福島市主催で開催されている震災復興パネル展を指します。
第2クールからの主な内容は、震災を経験した方の体験談(伝承館 語り部含む)の映像放映、放射線測定器の測定体験、除染等の道具展示、伝承館展示物の写真展示、2011年3月11日から2020年3月31日までの年表と写真展示、復興データパネルの掲示、2011年3月12日から19日までの新聞記事一面の掲示、小・中学生等から寄せられたメッセージ展示、オリンピック・パラリンピックについての展示となっています。
出典: 福島市ウェブサイト 「震災復興パネル展」を開催しました より引用。
※23【県民健康調査】
福島第一原発事故により放出された放射性物質の人体への影響を網羅的に見る目的で、福島県が2011年6月から「県民健康管理調査」という名称で開始しました。もともとは、当時の民主党政権の指示により国主体で進める方向でしたが、様々な調整を経て福島県が主体となり、調査自体は福島県立医大に委託する形になりました。ただし「県民健康管理調査」という名称は、2013年10月の県議会での一般質問で、管理という言葉が上からの目線だ、という批判が出たため2014年度から「県民健康調査」と改められています。
※24【近藤駿介】
日本の科学者(原子力工学)。東京大学名誉教授。2004年1月から2014年3月まで内閣府原子力委員会委員長を務めました。
菅直人首相(当時)の指示により、福島第一原発が最悪の状態になった場合の避難の試算を行いました。その結果、原発から半径170キロ圏(首都圏では、茨城、栃木、群馬各県が含まれる)は強制移住を迫られる可能性があるとのことが示唆されましたが、政府が公表することはありませんでした。
「福島事故直後に『最悪シナリオ』 半径170キロ強制移住」東京新聞(2012年1月12日付)より。