洗濯物干しプロジェクト

インタビュー 高橋理恵子

生活に密着した放射能測定
-洗濯物干しプロジェクト-

養護教諭だった高橋理恵子さんは、生活環境が比較的高線量率の地域だったことや、自分自身が放射能について知りたいということから情報を収集し、ふくしま30年プロジェクトの放射能測定を利用していました。
依頼品のなかには食品や土壌以外にも、タオルや洗濯機の糸くずフィルター、掃除機のゴミパックの中身など身近な生活品がありました。これらは養護教諭という職業柄、保護者からの素朴な質問にも答えられるようにとはじめたと語っています。そして、彼女が測定を進めていく過程は、五感では感じられない低線量の被ばくを可視化していく作業でもありました。
今回のインタビューでは、高橋さんが原発事故初期に感じた不信や疑問からはじまり、自分で数値を確認していくなかで感じたことや子どもたちへの想いを語っていただきました。


高橋理恵子

福島県福島市在住
元養護教諭

インタビュー:ふくしま30年プロジェクト
(2020年9月29日@ ZOOM)


原発からのモノ


ーふくしま30年プロジェクトとはどのように出会いましたか?

高橋 私は震災後、福島市にも放射性物質がかなり飛んできていることを、文科省のHPの定時降下物などを通じて知りました。
私は養護教諭なのですが、放射性物質というものは、それまで身の回りの環境に「原発からのモノ」はなかった訳ですし、「放射線というのは病院の放射線管理区域 (※1) でさえ0.6 μSv/hで、ちゃんとマークを貼って、そこに入るのにも管理がいる」という認識がありました。それが身の回りにたくさんあるということになって、すごく未知のもので、それは「身体にどれくらい悪いのか」という恐怖感がありました。
自分にも子どもがいましたし、仕事としても児童に健康教育や保健指導をしていたので、「身の回りに放射性物質がある」ということがとても気になりました。いろいろなことを調べようとしたのですが、世界ではチョルノブィリ(チェルノブイリ)事故 (※2) などはあったものの、結局日本でのことはあまりよくわかりませんでした。
当時東京で大学生だった娘がツイッターをやっていまして、東京や各地の先生方が詳しい資料を提示されているから「それらを見て勉強したら?」と教えてくれました(笑)。そうしてツイッターを見ているうちに、様々な方々が発信している中に、ふくしま30年プロジェクトさんを、前の名前「CRMS(市民放射能測定所)」で見つけました。割と家の近くに事務所があったので、実際にお邪魔したり、お話を伺ったりということがはじまりでした。




チョルノブィリ(チェルノブイリ)原発事故により、原発に隣接するプリピチャ市住民4万5000人が避難し、さらに周辺30km圏から9万人、合計13万5000人の住民が避難しました。


ー3.11の頃娘さんは東京にいらっしゃって、福島市内の身の回りでは、ご家族や友人の対応はいかがでしたか?

高橋 息子が高校一年生になったばかりでした。原発事故の直後、原発の状況はわからないし、一度「福島を離れた方がいいんじゃないか」と考え、東京に自主避難したんです。ちょうど春休みだったので、息子と一緒に娘のアパートに休み中だけ滞在しました。
 家族からは「全然大丈夫。偉い先生方がそう言ってるから戻って」と言われたのですが、自分としては戻るのが心配でした。でも、仕事も子どもの学校もあるので最終的には戻りました。家族には危機感はないままでした。たぶん山下(俊一)教授 (※3) の講演かテレビからの言葉で、「原爆が落ちた時の水を飲んでも死んだ人はいなかったから大丈夫」ということを義理の父から話されて、「自主避難しているうちに、福島ではそういう話になっているのか」と驚きました。
 自分としては、そういう話は、大変申し訳ないんですが、ちょっと信じられませんでした。でもそれについて、私自身も勉強不足だったので、「これは安心させるために言ってるだろう」程度にしか思いませんでした。
 しかし、生活も仕事も基盤が福島にあって、ここで暮らしていくために、仕事も復帰はしたんですが、でもやはり、小さいお子さんを持つ保護者の方々は特に心配されていました。仕事、職場が小学校でしたが、そういう親御さんは保健室に相談に来まして「食べ物は大丈夫?」とか、「姉が東京に避難したんですが、私たちはここに住んでいていいのでしょうか?」、「洗濯物は外で干せますか?」、「子どもを外で遊ばせて問題ないですか?」、「畑で採った食べ物は食べても大丈夫でしょうか?」といった質問されました。そもそもそういったことを聞ける人が身近にいなかったため、学校の保健室にはすぐに誰でも来られるので、私はそういう質問をとてもたくさん受けることになりました。
 特に子どもを持つお母さん方は、割と不安を抱えていることが多かったです。かたやお父さんで、心配している人は少なかったです。ですので「母子避難」という言葉ができたと思うのですが、母子だけで県外に避難する方は結構いらしたと思います。ただ私は立場上、それを良いとも悪いとも言えないので、自分としては30年プロジェクトさんのような団体と繋がって、納得できたことを保護者の方と共有して、自分自身もそれに則した生活がしたいという気持ちでした。


子どもが外で遊ぶ際の空間線量率の参考値が「専門家に聞く『放射線Q&A』」に掲載されました。出典:福島市(2011)「ふくしま市政だより平成23年4月21日号」より。


2011年3月21日に開催の山下俊一教授と高村昇教授の講演会についての告知。出典:福島市(2011)「ふくしま市政だより東北地方太平洋沖地震速報版13号」(2011年3月21日)より。


偉い人が言うこと


ーお立場上、興味を持たざるを得ない背景があった。

高橋 だから、まったく気にしていない人もいたと思います。夫がそうで、水も普通に飲んでいました。
ただそれが半年や一年が経つにしたがって、現状がわかってきたタイミングで、「やっぱり気をつけた方がいいね」という風に家族も変わっていきました。

ーふくしま30年プロジェクトとの出会いは大きかった。

高橋 実際に外に干す洗濯物について、どんな資料にも状況がわかる記述や記録はなかったんです。だから心配であれば、自分で測るしかありませんでした。自分の力だけではできないので、それを30年プロジェクトさんにお願いすることができました。
すると測定だけでなく、取り組み自体を拡大いただき、多くの方々に声掛けして検体数も増え、しかも結果を共有していただけました。それはすごく、本当に自分としては助かりました。
記録を見ると、2013年からタオル干しをはじめています。当時は外に一日タオルを干しただけで、セシウム134と137の合算で7 Bq/kgくらいが出ていました。それが30年プロジェクトさんに2016、17年と、他の測定結果も共有していただき、だんだんと年を追うごとに不検出になっていったんです。
私はそれを見てホッとして、「これなら洗濯物が干せる」と嬉しくなりました。今はもう、布団でも何でもバンバン干せるのですが、当初は布団などは干せませんでした。


2012年4月1日から食品の新基準値が設定されました。出典:厚生労働省(2012)食品中の放射性物質の新基準値及び検査についてより


各自治体へは消費者庁と独立行政法人国民生活センターからの貸与で、食品検査用として簡易型ガンマ線スペクトロメーターが配備されました。写真は自治体に配備されたものと同型の測定器で、ふくしま30年プロジェクトで使用しています。


ータオル干しが始まる前までは、実際に空間線量ももっと高かった時期だと思います。他にも食品や諸々の心配事など、どうされていたんですか?

高橋 当時はすべて家の中に干して、「外に干そう」なんて気持ちにはまったくなっていませんでした(笑)。
食料は、私自身が測定を頼まなくても、30年プロジェクトさんもそうですし、市や県が学校給食などを測っていて、一応データは出てきていました。
しかし、日本では、原発事故が起きる前は放射性物質の基準自体が無かった (※4) のです。その後いろいろなことが暫定的に決まっていき、水が10 Bq/kgとか食べ物が100 Bq/kg (※5) と変わっていったのですが、自分の中では10とか100という基準値は未だに受け入れ難いです。特に給食は子どもに与えるものなので、「1 Bq/kg未満じゃないと食べさせたくない」という気持ちでした。
最初に学校に入ってきた測定器は、シンチ(NaIシンチレーションカウンター)で、検出下限値20 Bq/kgまでしか測れませんでした。それがだんだん10 Bq/kgに下がり、そして自分は「1 Bq/kg以下なら食べさせよう」という感覚だったんですが、そのうちにゲルマ(ゲルマニウム半導体検出器)で測るようになったんです。給食を丸ごとミキシングして測っても測定結果が1 Bq/kg未満になったので、だんだん安心して食べさせることができるようになりました。
でも、偉い人たちが言っていることと自分の中の乖離は、立場的に難しいところもあって「基準値が高過ぎる」という風に思っています。しかしやはり、基準を決めた方々は、いろいろリスクやバランスを研究して決めたのでしょうし、きっと「100 Bq/kgだったら70年間食べ続けても身体に影響が出ない」ということなんでしょう。
講演会もたくさん聴きに行きました。すると、そういう基準を皆さんが話されるので、「それに従うしかないのだろうな」とは思いつつも、自分個人としては「1 Bq/kg未満のものでないと食べたくない」と今も思っています。


放射線管理区域よりも高い場所


高橋 自分も公務員だったので、いろいろな立場もわかるんです。組織や県の農産物や流通の事情のこと、福島市には果樹農家さんがたくさんいますし、風評被害や実害で売れないなどいろいろありました。農家の親御さんが学校に相談にきて、涙を流して話されたりもしていました。それはそれは、本当に大変な状況だったんです。
そういう時に、私は自分の考えばかり話せませんから、たとえ心の中でどう思っていても、「なるべく低いものを食べさせた方がいいとは思いますが、そんなに心配しなくてもいいんじゃないですか」という、厳密に気持ちとは違う説明をすることもありました。

ーもともとあまりうろたえたり、慌てふためくタイプの性格ではない?

高橋 立場上、養護教諭は授業などもします。子どもたちに指導もします。一般の方と違って、公務員は自分の主張だけをするわけにもいかないんです。
そこは自分も大人になったかもしれません。最初の頃の自分のツイッターを見れば、それでも匿名でやっていたので、「そんな高い基準受け入れられない」とか言っていたと思います。(笑)でもそれもだんだん決まっていき、基準がつくられていって。特に公害問題にはリスクバランスがあるじゃないですか。
当時保護者の方からよく聞いたのは、「影響が出てくるのは後からですよね?」、「子どもが食べて、何か出るのは10年後、20年後、30年後でしょう」ということでした。かといって自宅の畑でつくっているので、自分の家で作ったものを食べざるをえないわけです。
その辺、「じーちゃんばーちゃんは食べっけど、孫には食べさせない」など、そういうケースがたくさんありました。

ーそういった状況をずっと見てこられていて、「タオル干しは突破口になる」ということに気づかれた?

高橋 タオルの測定だけではなくて、空間線量はもちろん、土壌の放射能量もできるだけ把握していました。我が家の場合は屋根に積もったものが、ものすごく影響していたんです。
2階には寝室があって、瓦は新しいツルッとしたものであれば雨で流れるのですが、我が家は古いスレート瓦だったので、中に染み込んでいたためにいくら高圧洗浄機をかけても、室内の空間線量が下がりませんでした。私はそこが気になって、屋根の瓦も全部葺き替えました。もちろんある程度東電さんに請求もしましたが、全部は返ってきていません。
我が家は2世帯住宅で私たちは2階で暮らしているので、特に寝る部屋の線量が高いというのは、常に弱い放射線を浴び続けるというイメージでとても嫌でした。職場はコンクリートの建物なので、それであれば事故前と同じくらいの、0.06 μSv/h 程度でした。家に帰ると0.6とか当初は1.2とかありました。「放射線管理区域よりも高いところにずっと暮らしてるんだ」と思うと、すごく嫌な気持ちでした。


身近にある放射線管理区域の例として、病院のレントゲン室やCTスキャン室があります。


マークは注意を促す目的で、白地に黒く縁取られた黄色の三角形のデザインです。


ゴキブリと放射線


ーとはいえ、そういった理屈がちゃんとあって、しかも冷静に話せる理恵子さんのお話をだんだんご家族も聞くようになって、少しずつ変わっていった。

高橋 最初の頃は「安心、安全、大丈夫だ」ということが県内に流されていたんですが、だんだん正確な情報が流れてきて、やはり子どもたちの甲状腺検査と甲状腺がんがポイントだったと思います。それが子どもたちに出るようになって「ええ、もしかして」、「初期被ばくの影響が?」ということに意識がいくようになり、県民にとってはあれがターニングポイントだったんじゃないかと思います。
当初まだ見えない放射線を理解してもらえなかった頃、よくたとえ話をしたのはゴキブリの話でした。他にも高いところがダメな人や、蜂が嫌いだったりする人もいますよね。
私が放射線を嫌がってる頃、よく言われたのは、「なんでそんなに嫌なんだ?目に見えないし、みんな大したことないって言ってるぞ」と。じゃああなたたち、「ゴキブリだらけの部屋に住める?高いところを嫌いな人が、東京タワーのてっぺんでガラス張りの部屋に住める?蜂が飛び続けてる部屋に一日入れる?」など、目に見えないものの恐怖を理解できない人や子どもたちには、なるべく噛み砕いて話していました。
そうすると「ああ、なるほど」と。言っちゃえば生理的な話なんですが、科学的な情報だけじゃなくて、そういうことも人を納得させる上で大事だということがわかりました。

ー養護教諭としてのコミュニケーション力が要所要所に活きている。

高橋 一つ今でも心にひっかかっているのは、自主避難に義父母を連れていかなかったことです。義父母に対して「嫁として申し訳なかったな」ということはすごく思います。義父母はそれを責めてきたりもしませんが、「自分たちだけ避難してしまって申し訳なかった」ということは、今でも思います。

ーそもそも、そんなことを気にしなきゃいけなくなった原因をつくった人たちが別にいて、高橋さんはもちろん、当時いろいろな判断をした市民に責任はないと思います。

高橋 そう言っていただけると救われる思いがします。当時夫は浜通りに単身赴任中でした。しかも震災後1週間くらい連絡が取れませんでした。携帯も職場の電話も繋がらない状態なので、相談もできませんでした。ですから自分1人で決めるしかありませんでした。子どもとまず避難か、義父母も連れて避難するのか迷いましたが、当時の自分の能力としては刻々と迫る事故の状況で、息子を連れて行くのが精一杯でした。

ーお子さんをまず県外に出すというのは、今から考えても、まっとうな判断だったかと思います。

高橋 今でこそまだ冷静に喋れますが、当時は本当に、いろいろと悩み大変でした。


東京タワーの大展望台には「ルックダウンウィンドウ」というガラス張りの床があり、150m下の風景を見ることができます。

手探りからのタオル干し測定

ー大変な中で、状況を可視化できて、皆で足並みを揃えられる突破口として考え出したのがタオル干しだった。

高橋 そういう風に最初から大きく考えていたかというと、そうでもありません。まずは自分が干しても大丈夫なのか、例えば職場の保護者会で尋ねられた時に「大丈夫ですよ」という風に答えられるようにしたかったのが、最初のはじまりでした。
もともと私は実験が大好きで(笑)。
それは論文を書くとかいうレベルではなく、子どもの頃から好きでした。やってみないことにはわからないし、どうせやるなら条件を揃えないと比較もできない。頭の中に、「比較した時に無効になっちゃうようなものではない、活きた、合理的な測定がしたい」ということはあって、タオルなら簡単に用意できるし、扱えると思いました。
それからもちろん、30年プロジェクトさんからも「測定するなら、機械に入るのはこのサイズまで」みたいな指導もいただけて、そうしてはじめることができたんです。

ーやってみて、思い通りの手応えでしたか?

高橋 最初はツイッターで繋がった方々とやってみたりもして、その時に助言をいただいて、干し方から何からいろいろ考えました。
普通なら竿があったら前後に並べるところ、「横並びにしないと付着する量が変わってしまう」とか、「時間もきっちり何日間で、何時~何時でピッタリ測るとか、タオルも新しい同じ種類のものを揃える」とか、そういうことを整理していきました。
それで最初にやってみると、室内干しの洗濯物に出ないはずの数値が出ちゃったんです。それで「おかしいな。さすがに家の中にまでそんなに放射性物質が入ってるはずはない」ということで調べたら、洗濯機の内側に洗濯ゴミが溜まる場所があるじゃないですか。そこにゴミがいっぱいに溜まっていたので、それを捨ててきれいに洗ってから干し直したところ内干しは不検出でした。
そういう試行錯誤をすごくしました。

ー掃除機に溜まったゴミの放射能量がとんでもなく高かったりする事例はあって、よく考えたら洗濯機にも溜まるというのは理屈としてわかります。

高橋 それは「外に干す前から付いてしまっていた」ということでした。それで、2016年からタオル干しプロジェクトが正式にはじまったんですが、その時の注意事項の一番最初に「洗濯機のゴミをしっかり捨てる」ということを書きました。それは自分の失敗があってこそでした。
あとはタオルを一実験に何枚とか、乾燥したものよりも一回水で濡らしたタオルの方が付きやすいということを、30年プロジェクトさんと相談しながら決めていきました。

ー一応聞いておきますが(笑)、30年プロジェクトの対応は、実際に協働してみていかがでしたか?

高橋 とても親切でした。それに、本当にこんな測定でどんな結果になるかわからないのに率先して測っていただけて、さらには私が自分で測っても仕事等に追われてなかなかグラフにもできないので、グラフにまでしてくださって、測定した場所を市内の地図も作成してくださいました。
さらに、「場所によってベクレル数が違うのはこんな理由だろう」という分析は私にはなかなかできないことで、それが2018年の資料はとても詳しくまとまっています。ですので私は本当に最初にはじめただけで、後は頼りっきりでした。


洗濯物プロジェクト2016では、高橋さんに案内と記録用紙を作成してもらい準備を進めました。


衣服に付着した放射性セシウムは洗濯機の糸くずフィルターに溜まり、2013年4月にそのゴミを測定したときは149Bq/kgを検出しました。



震災を知らない子どもたち


ー最終的にプロジェクトはどれくらい広がったんですか?

高橋 2017年で17件、お声がけして協力いただいた測定結果が手元にあります。
住所と期間をそれぞれ記して、データは30年プロジェクトさんがまとめてくださり、2016年からずっと継続くださっていて、すごくありがたいです。おかげで結果が見られ、2016年には検出していたものが2018年以降は不検出になっていったのは安心に繋がり、それは誰にとってもそうだと思います。嬉しかったし、本当にすごく助かりました。
タオルは一番最初は7 Bq/kgくらい出ていました。2012年に福島市内の掃除機ゴミは、セシウム134と137の合算で1328.9 Bq/kg出たわけです。当時は私も張り切って、エクセルでグラフにしたりしていました。今はもう、そこまでする気力がありません(笑)

ー明確に「不安」が「安心」に転換したタイミングはあるんですか?

高橋 やはりそれは、不検出になった2016年あたりです。

ーさらに4年が経ったわけで、食品なども含めてもう汚染的な心配はありませんか?

高橋 そうですね。
2011年の小学校の活動などは、ことごとくできませんでした。運動会もできない。校庭に座ることもできない。プールは水を捨ててなかったからできなくて、体育館だけ使用という、すごく制限された状況でした。遠足は県外にバスで連れて行き、しかも首からは線量計を下げてという状況だったので、そこから考えると本当に普通の状況になりました。
ただ、今も甲状腺の検査を2年に一度やっているんですが、そこの結果はやはり気になっています。
個人としては食べ物も「もう検出されないから大丈夫」と油断しないで、測定はちゃんと継続して、特に小さい子は放射線に敏感な訳なので。生活中の空気を吸わないのは無理ですが、例えば土埃の中に少量でも再浮遊してるということは気にした方がいいと思っています。
セシウム137は半減期が30年であと20年はあります。風がビュンビュン吹いて砂が舞っている時は、微量でも空中にあるかもしれないものを全開で吸うのは、「どうなのかな?」と思ってしまいます。
ただやっぱり「多様性」ということはあって、どの家庭にもその家なりの考え方や生活、できることがあって、私が何かを押し付けるようなことはしないよう、「自分たちで考えてください」ということを大事にしています。
ただ9年、10年と経つにつれて「知らない」人たちというか、つまり当時子どもだった子が大人になって「あの時何かあったけど、今はもう普通」ということで、完全に「知らない」んです。「知らない」ということは、気をつけるわけにもいきません。震災後に生まれた子どもなどは、原発事故が過去にあったということとすら知らないのです。
復興が進んでいること自体はいいと思いつつ、その辺をバランスよく、不安を煽るわけではないけれど「身の回りにはあるんだよ」ということを教えていけるかということを考えています。
でもそれも私個人の考えです。市とか県、国の考えとはまた別なので何とも言えないんですが、個人的にはそう思っています。


除染土壌の運び出し作業の案内版の前を駆け回る子どもたち。案内板には除染土壌の運び 出しであることが書かれていません。(撮影:2020年)© 2020 Photograph by Shuji AKAGI

10年目の写し鏡

ー不安や心配はずいぶん払拭されてきた。

高橋 逆に私は、県外の人たちが「福島についてどう思っているのか」が気になります。それを知る機会があまりありません。一時期もうちょっと「知ってもらいたい」と思って、SNSで積極的に発信していた時期もあるんですが、結局それが「風評被害を呼ぶし差別もされる」ということで、「すごい大変なところと思われるから、やめろ」という勢力もあるわけです。
でも実際に県外の人たちは、9年経って忘れて福島を、「なんてことはない、普通の場所なんだよ」と思っているのか、それとも「原発事故があって、放射性物質が降った大変な場所」と今も思っているのか、その辺が気になります。
福島の人は結構県外の大学に行ったり、企業に就職したりします。ウチの子どももそうでしたが、その時に「福島出身」と言うと変な空気になるかもしれないなと。私個人で知り合った方々は優しくて、「大変だったね」といういい人がほとんどでした。「福島から来たから放射能がうつる」などという悲しいニュースも聞きましたが、そんなことは私はなかったです。
しかし世の中にはいろいろな人がいます。そういうことが10年も経つとどうなるか、その部分が気になっています。
今なんかは、コロナで東京の方が大変そうなので、もし福島がもう大丈夫と思ってくれているようなら、「感染者が少ない福島に住みませんか」とすすめたいくらいです(笑)。

ー福島について意識はなくなっているとは思いませんが、今はコロナはあるし、気候変動のリスクも肌で感じるし、すぐ隣で中国とアメリカが一触即発みたいなところもあって、世界が無茶苦茶な中で薄まってきてるのは確かだと思います。

高橋 これは気持ちの問題なんですが、私たちがあの時に「生きる」「死ぬ」とか、「何のために今までやってきたのか」とか、そういうことをまさに今、東京や他の感染者数が多い地域の人たちは考えていて、疲弊感があったり不安になったりしてるのではないかなと思います。
だから、今だったら東京や県外の人たちも「当時の私たちの気持ちをわかってくれるかな」ということを思ったりしています。



※1
原子力施設や放射線利用施設等であって、関係者以外の者の無用な放射線被ばくを防止するとともに、施設内で作業する人の被ばく管理を適正に行うため、放射線被ばくのおそれのある区域を他の一般区域から物理的に隔離した区域を管理区域という。このうち外部被ばくのみの可能性のある区域を放射線管理区域、内部被ばくの可能性もある区域を汚染管理区域と呼んでいる。
出典:JAEAウェブサイト 「原子力百科事典サイトATOMICA」管理区域より引用。


radiation controlled area. 管理区域の中で、密封線源または放射線発生装置だけを取り扱い、外部被ばくのみが問題になる区域をいう。非密封線源を取り扱うため外部被ばくと内部被ばくの両方が問題となる汚染管理区域とは区別されているが、日常的には、放射線管理区域を略して単に管理区域と呼ぶこともある。放射線障害防止法の施行規則第1条1号及び平成12(2000)年告示(平成18(2006)年最終改正)第4条では放射線管理区域を、外部放射線に係る実効線量が3カ月間につき1.3 mSvを超えるおそれがある領域等と定めている。
出典:JAEAウェブサイト 「原子力百科事典サイトATOMICA」放射線管理区域より引用。


※2
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国の北辺に位置するチョルノブィリ(チェルノブイリ)原発で原子力発電開発史上最悪の事故が発生した。
保守点検のため前日より原子炉停止作業中であった4号炉(出力100万kW、1983年12月運転開始)で、26日午前1時23分(モスクワ時間)急激な出力上昇をもたらす暴走事故が発生し爆発に至った。
事故から4カ月後の1986年8月、ソ連政府はIAEA(国際原子力機関)に事故報告を提出した。その報告などに基づくと、大量の放射線被ばくによる急性障害が200名あまりの原発職員と消防士に現れ、結局31人が死亡した(爆発の時に行方不明になった1人、事故当日火傷で亡くなった1人、被ばく以外の死因1人を含む)。事故翌日の4月27日に、原発に隣接するプリピャチ市住民4万5000人が避難し、さらに5月3日から6日にかけて周辺30 km圏から9万人、結局13万5000人の住民が避難した。周辺住民には急性の放射線障害は皆無であったとされている。
出典:京都大学ウェブサイト原子力安全研究グループ 今中哲二「チェルノブイリ原発事故」より引用。


※3
1952年長崎生まれ。長崎大学原爆後障害医療研究所名誉教授。1990年より原発事故後のチョルノブィリ(チェルノブイリ)を100回以上訪れ、国際医療協力に尽くす。2005年 07年、WHO(世界保健機構)ジュネーブ本部で放射線プログラム専門科学官を務める。
出典:長崎大学ウェブサイト(2011)長崎大学広報誌 Choho Vol.36夏季号(2011年7月1日発行)より。
出典:国立情報学研究所(NII)ウェブサイト KAKEN —  研究者をさがす | 山下 俊一」より。


※4
食品中の放射能について、チョルノブィリ(チェルノブイリ)原発事故後の輸入食品に対しては濃度限度が設定されましたが、日本国内産のものについては未設定のままでした。

チョルノブィリ(チェルノブイリ)原子力発電所の事故に関連して、厚生省(現厚生労働省)では汚染食品の輸入防止の立場から、「食品中の放射能に関する検討会」における専門家の検討結果を基にこの暫定基準を定めた。基準値は食品中のセシウム134とセシウム137の合計の放射能濃度が、370 Bq/kgと定められた。セシウムの他にも汚染核種は種々あるが、セシウムによる被ばく線量から全被ばく線量の推定が可能であり、また迅速で精度のよい測定ができるため、このように定められたものである。評価の前提として、国民の食品摂取量1.4 kg/日、その中輸入食品の割合35 %がすべて限度濃度であるとしている。
出典:JAEAウェブサイト 「原子力百科事典サイトATOMICA」放射能量限度暫定基準より引用。


※5
厚生労働省は、より一層の食品の安全と安心を確保するため、食品から許容することのできる放射性セシウムの線量を、年間5 mSvから1 mSvに引き下げることを基本に、厚生労働省薬事・食品衛生審議会において新たな設定のための検討を進めた。
食品安全委員会は、食品中の放射性物質(ウランを除く)についてのリスク管理を行う場合、評価結果が各年の線量ではなく、生涯における累積線量で示されていることを考慮し、食品からの放射性物質の検出状況、日本人の食品の摂取実態を踏まえて管理を行うべきとした。これにより、2012年4月1日から新しい基準値が導入された。
出典:厚生労働省 食品中の放射性物質の新基準値および検査についてより引用。

1986年4月のチョルノブィリ(チェルノブイリ)原子力発電所事故にともない、放出された大量の放射性物質が世界規模で拡散し、高レベルに汚染された食品が日本に輸入される恐れがあることから、セシウム134及びセシウム137に関し暫定限度が設定されていたが、福島第一原発事故にともなう新しい基準が輸入食品にも適用された。
出典:JAEAウェブサイト「原子力百科事典サイトATOMICA」輸入食品中の放射能濃度の暫定限度より引用。


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