3.11を語る

阿部一子(阿部農園)

あべいちこ
1954年原町市(現南相馬市)生まれ。共立女子短大国文科を卒業後、東京都立足立高等保母学院を卒業。東京で4年間保育士として働き、夫の転勤の為に退職。福島、横浜、大阪を経て、90年4月、夫の実家の農業を継ぐことを決めて、4人の子どもとともに福島市へ。


どうしても測りたい


阿部 原発事故直後の5月29日、チェンバおおまち(※1)で、食品の測定をしてくれるという企画がありました。13時から食品の測定をしてくれるということでしたので、午前中に畑へ行き、サクランボほどの大きさになった梨の実を1kg採って出かけていきました。
13時前に会場に着いたのですが、すでにたくさんの人が並んでいて、係の人が人数を数えていて、私の2、3人前に来たところで、「ここで終わりです」と言われ呆然としました。「どうしても測ってもらいたい!」その思いは強く、キャベツがゴロゴロ並んでいるので、「同じ地域のキャベツを測っても同じくらいの値だと思うので、一つ梨に入れ替えてもらえないですか?」というお願いをしたら、「いいですよ」ということで、最後の一つで測ってもらえました。その時測ってもらった梨の実は200Bq/kg、それを採った梨畑の空間線量は1.48μSv/hとノートに書いてあります。

ー当時の機器は「LB200」という、セシウムとカリウムを一緒に測定するものでしたので、それを分離して計算していたのか、そこは不透明です。

阿部 私はインターネットとかやっていないので、結果は電話でも何でも「直接欲しい」と言ったんです。でも連絡がこなくて、後日機会があって聞いたら、その時に「阿部さんのところは確か200(Bq/kg)超えた」という本当にいい加減な情報でした。

ー当時はかなり混乱していた背景もあるかと思います。

阿部 確かに、人はごった返してるし、測ってる方が「受付は終わりました」って説得しようとしても、泣きついて「何とかしろ」と言ってる人もいました。その中の一人が私でした。あの時は本当に、「どうしても測りたい」という人が多かったんです。
福島での測定はまだ機能していなくて、梨はだんだん大きくなり、じゃあ「これを出荷していいのか」という時に、測定所を紹介いただきました。理研分析センターというのが山形、鶴岡市にあって、1検体12,600円でした。ゲルマニウム半導体検出器での測定でした。
でも、個人的には「10Bq/kg以下は不検出」という結果の出し方に納得がいかなくて、もう少し「ちゃんと測れるところはないか」と探して、初年度はそれで終わってしまいました。

ー同年9月から、CRMS市民放射能測定所 (※2) での、セシウムとカリウムを分けての測定が始まっています。

阿部 8月6日に「夏のお便りを書きたいので、どれくらい放射能が入っているかを知りたい」ということで、それでその結果をもって「ウチの梨にはこれだけの放射性セシウムが入っていますが、もしそれでも食べていただけるのならお送りします。いかがしましょう?」というお便りを、全国に800通くらい出しました。「それでもよければ、注文してください」と。
8月6日の段階で20~28Bq/kg出ています。その次の8月30日の測定の時で9.62~13Bq/kgになっていましたが、とにかくウチでは毎年そういうかたちで、皆さんに「現状はこうです」ということをお伝えし続けてきました。
私は1986年の2月に娘が生まれています。だからチェルノブイリで事故が起きた (※3) 4月26日というのは、生後2ヶ月くらいの娘を抱っこしながら、その影響で母乳にセシウムが含まれているという話を聞いて、当時私も「飲ませない方がいいんじゃないか?」ということをすごい悩んでいました。答えを探して、どこに辿り着けばいいのかわからなかったんです。当時はもちろん、ネットもない時代です。
だから私としては、とりあえず子どもがいたり、物を食べる人にはせめて「キチンとした情報は提供しよう」と思って、そういうお便りを書いてきました。

ー800通の反応はいかがでしたか?

阿部 すごく好意的でした。しかもそのお便りが皆さんの手から手へまわっていって、「もしよかったらあなたも一箱どう?」みたいな、「風評被害ってあるみたいなんだけど、今回あなたも一箱頼んであげない?」という感じで。それで、事故後の出荷一発目から売り上げが落ちるということはありませんでした。

ーJA出荷はされていますか?

阿部 していません。

ーまさに「顔の見える」関係が築かれていて、信頼関係が構築されてきた強みかと思います。

阿部 私たち夫婦は東京にも住んでましたし、横浜に4年間、その後大阪にも行って、その後に「後継ぎがいないから」ということで戻ってきたので、顔が見えている関係が特に多いんです。4人の子どもたちがつないでくれたご縁です。

ー「風評被害」と呼ばれるものの煽りを受けない、本当に美しいケースに聞こえます。

阿部 私たちは90年の4月2日にここに引っ越してきました。「引越しのお便り」を書いたのがきっかけで、それからずーっと29年間、近況報告を兼ねて手書きで書き続けています。

「怖さ」と「責任」

ーチェルノブイリのご経験もあって、実際にふくしま30年プロジェクトのような市民放射能測定所(以下、市民測定所)ができたことはどう受け止めましたか?

阿部 「もうここで安心できる」と思いました。食料の放射能についてはJAや市も測っていますし、私もそういったところに持って行ってはいます。最初の頃は、誰もが不安で需要が多く、電話してもつながらないし、やっとつながって食品を持って行っても結果は郵送で、2、3日後に送られてくるというものでした。それで、セシウム134、137の合計が20Bq/kg未満は全て「検出せず」という結果です。
だからこそ、ふくしま30年プロジェクトですときちんと測ってもらえるので、お金を払ってでも「そちらがいいな」と思っています。分け方の基準は、自分の家で食べるじゃがいもやきゅうりなんかは、市がやっている公共の測定所です。でも、ちゃんとお客さまにお出しするものは、市民測定所にお願いするようにしした。それで、仕事を休めない友達にも北海道のことを伝ています。

ーそもそも市は、「販売する食品は持ってこないで (※4) 」というルールをつくっています。

阿部 梨を市の測定所とふくしま30年プロジェクトで測ってもらい、測定結果がどう違うのかということを梨便りに書きました。どれだけきちんと精密に測っているかを見てもらえて良かったと思います。ふくしま30年プロジェクトのおかげです。

ー自家消費分に対しての感覚は、とりあえず20Bq/kg以下であれば満足できていますか?

阿部 すごく楽になったと思うのは、自分が60歳を過ぎて、元京都大学の小出裕章先生 (※5) の話を聞くにつけ「高齢者は原発がこれだけ社会にできてしまった責任をとって、率先して食べなさい」というメッセージを受けて、食べております(笑)。
この家には若者もいませんので、その観点からもホッとしています。そもそも娘たちは「大丈夫、大丈夫」って、私にしてみれば「何で大丈夫って言えるの?」みたいな感覚です。でもそれも、ストレスを溜めない方法として、いいのかもしれません。子どもは3人ともこの辺に住んでいて、それでも気にしないので、私は保養プロジェクトに孫も含めて連れて行っています。
しまいには、「ばあばがそんな気にしてどうすんだ」くらいのことを言われ、「気にし過ぎだ」って。思えば2011年頃、ウチの一番小さい孫が6ヶ月で、「あんた大丈夫なの?気にならないの?」って聞いても、娘は「え、大丈夫じゃないの?」みたいな感じでした。かたや私としては、もう、孫を連れて北海道にでも行きた
い気持ちでした。朝からソワソワしていて、するとラジオで「北海道被災者支援ネットワークが避難民を受け入れる」ということを聞いたので、すぐにニセコの友達に電話して「そことつながって!」と伝えました。結局私たちは、7月末から2週間ほど行ってきました。その時家族には、「行かないんだったら私一人で連れていくから、あんたたち誰も行かなくていいから」と伝えました。それで、仕事を休めない友達にも北海道のことを伝えて、「全部まとめて面倒みるから心配するな」って(笑)。
当然ですが「お金ないけど、どうする?」と言われて、「私ってたぶん、この時のために貯金していたんだと思うから、任せろ」って(笑)。

ーすごい覚悟です。

阿部 結局旅費は向こうが出してくださって、夏は空いているので、泊まるのはスキー場のコンドミニアムでした。その時は結局6ヶ月の子どもがいる娘も一緒に行ってくれたんですが、蓋を開けてみたら、一人で子ども9人の世話はいくらなんでも無理でした(笑)。とにかく私は一人で、「みんな連れて行くぞ!」って燃えていたんです。

ーそれは元来の性格なのか、チェルノブイリからくる知見やノウハウだったんでしょうか?

阿部 何だったんでしょうね、、? 原動力は「怖さ」だったのかもしれません。とにかく、放射能が子どもの身体に及ぼすかもしれない影響、未来に向けての「どうなっていくんだろう?」という不安しかありませんでした。
それと出発の朝に、携帯にメールが来たのが忘れられなくて。「福島の車の放射能を気にする声が上がっているので、仙台港に来る前に洗車をお願いします」というものでした。出発する日はどしゃぶりの雨だったので洗車をせず、ドキドキしての出発になりました。福島ナンバーの車で苫小牧からニセコに向かいましたが、途中のトイレ休憩で道の駅に寄っても特別何もなく、無事ニセコにたどり着いた時は、ホッと胸をなでおろしました。


粗皮削り作業の様子を伝える、一子さん直筆の便り

表土剥ぎの実験

ー阿部さんのような動きは、他に近い方で、共有できる方もいたんですか?

阿部 まったくいませんでした。あ、でも「ふくしま土壌クラブ」という、果樹農家で自分たちの畑の放射能や果物を「自分たちで測ろう」という集まりに参加していた時期もありました。しかしやはり、どうしても「細かい部分でズレるところを感じながら」ということではありました。でも、いろいろなことを土壌クラブでは教えてもらいました。今となっては、「さすがに意味なかったかな?」ということもあります。例えばひまわりの種を蒔いてみたり、当時は本当にいろいろやりました。
JAからは、梨の木の表面に放射性セシウムが付いているので木の皮を削るようにと言われて、梨の木400本の粗皮削りもしました。これが大変な作業でしたほかにも、福島市農業振興課から平成24年度の事業として、果樹園の表土除染モデル事業への協力願いという文書が郵送で届きました。「ここで農業をして生きていく」と決めたのだから何でもやれることはやって、前に進もうと、「私たちも協力します」と返事を出しました。モデル事業は、りんご、桃、サクランボ、梨の4園地で実施。梨畑は我家の畑になりました。

ー本当は、放射能がなければ齟齬も生じず、そもそもは測定なんかを一般の農家さんがやらなければいけない状況はなかったわけです。もっとそこに何があったら、具体的な助けになったでしょう?

阿部 事故の後、JAの人、市の職員なんかが畑とかをウロウロしてました。でも、だからと言って何の情報も提供はしてこないわけです。とはいえ私たちは、今この場所がどんな状況に置かれているか、それが知りたいんです。JAとしては、「今この地域では、作物をつくって大丈夫な数値です」くらいのことしか言えないんです。まあ確かに、具体的に「何Bq/kgまで大丈夫か?」と言われても、評価の仕方もわからないとは思います。そんなJAから、「大丈夫ですから安心してつくってください」というお便りは届いたんですが、「その安心の根拠ってどこにあるんだろう?」と思いました。夫は、「オレらは農業で生きていくしかないんだから、つくるしかない」と言っていました。それで、花粉の交配も「もう花が咲いてるんだから、やんなきゃいけないだろう」って。

ーやらざるをえない。

阿部 でも、それが「無になったらどうする?」。食べられなかったら、しかも放置したってその放射能は土に染み込んでいくわけで、「そうしたら、私たちってどうすればいいんだろうね?」と言うと、「東電に持って行くしかないんじゃないか?」って(笑)。だから、とりあえず「そこまでつくる」という、もう、その「そこまで」がすごいですよね。しかもその時に追い打ちをかけるように、広瀬(隆) (※6) さんが福島に来て、
「福島の地で生きるのは大変だ。今後10年くらいでたくさんの人が死ぬんじゃないか」と言っていくという、もともと感じていた「こんなところで自分が生きていて」、しかも「ここに孫まで生きていて」という先で、さらに広瀬さんは「この地で作物をつくるのは殺人行為だ」みたいなことまで言っていました。そこで農家をやってる私たちって「何なの?」って。もう私、涙こぼれてきちゃって、そうしたら夫が「そんなところに行くから」、「ストレス抱えるだけだから、もう行くな」って(笑)。「ここで生きて行く」って決めたらそれしかないんだから、そんなあっちゃこっちゃ行って動揺して、しまいに「メソメソしてどうすんだ」って。

ーそういったことは言われて、率直にどう思われました?

阿部 私は、広瀬さんの資料を早速全部読みこんで「ここで生きてたらマズいかな、」と思ってしまいます。そして小出先生の話を聞けば、「うーん。60過ぎてるから食べるしかないな」みたいに、その時その時ですぐに傾いていく人間なんです(笑)。夫みたいに筋を一本通して生きていければいいんですが、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしてるんです。

やれることはやっておく

ーとはいえ「予防原則」というものは、世界的にも一般的なセオリーであることも事実です。

阿部 私の一番の懸念は、本当に「福島の子どもたちは大丈夫なのか?」ということなんです。だって甲状腺の検査なんかでも、陽性の人数が明らかに多い。とにかくそれが一番心配で、本当に影響があるのか、不安を抱えている親たちはさらに不安になっています。私もそれを見ていて、また不安になります。保養に行ける人はまだいいんです。行けない方々はさらに不安を抱えてしまうので、夏休みを利用したり、子どもたちがクラス単位や学校単位で軽くでも行ける国立の施設みたいなものがあれば、そこに行けたら親もばあばも、すごく安心できると思います。その根底には「本当にここにいていいの?」という、それが一番の心配です。

ー土の栄養や果物のことを考えて表土剥ぎをやらなかったご家庭もある中で、農家さんご自身の被ばくやその影響はいかがでしょう?

阿部 私自身は、ガラスバッジもホールボディカウンタもやっています。それは、「自分の被ばくが『どれくらいか』ということを知っておこう」と思ってのことです。空間線量も測って、その結果の限りですが、今の段階では「ここで生きていける」と思っています。私は自分の知っている限り、わかる限りは全部計測してきて、何か新しい機会があれば都度測らせてもらっています。むやみに怖がらない方がいいなと思いつつ、それでも「やれるところはやっておきたいな」と思っています。

ー諸々の結果が低いのは、表土剥ぎしかり、阿部さんのご努力によるところという気がします。

阿部 でも、他の方々はそもそも「大丈夫なんじゃないの?」と、気にしてないと思います。実際に「気にしなくてもいいんじゃない?」とか言われますが、もう反応もしないようにしています。ですので、答えとして「測るのが好きですから、趣味でやってますので」と言うようにしています。

ー農民連 (※7) さんのように、被ばく裁判までやっている方々もいます。それは異端だと思いますか?

阿部 思いません。「頑張れ!」と思っています(笑)。誰かが何らか声をあげていかないと、このまま終わらせるのは、さすがに、ねえ?


一子さんが記した、梨畑の除染風景

かたちにする

ー時が経ち、風化が県内外で進む中で、今も放射能測定を続けているふくしま30年プロジェクトのような団体が、心の拠りどころになっている側面はありますか?

阿部 それは、もちろんです。ただ、場所がもうちょっと、福島市のあんなに端っこでなく、あれじゃあ遠くて目立たないし、「街中のこっちの方に寄って来てくれたらいいのに」と思っています(笑)。

ー被ばくの状況などで、どこかで一定の安心を得られたきっかけってあるんでしょうか?

阿部 それは、私はずっとここに住んできて、できる限り自分で測ってきたということがあります。その上で、「ここに住んでいて大丈夫」と思ったのは、空間線量が1μSv/h、食品も1Bq/kgを切り出した頃からです。梨はでも、りんごや桃と比べても比較的最初から低かった。また、ウチではお米もつくっているので、それもずっと測ってきました。お米にしても、糠の部分を精米して、洗って、さらには炊くと大幅に減るという、そういうことを自分でやって、見て、知ったことが大きかった。そうして、自分で数値を見ることができて、やっと判断する材料を手にできるということがあります。
2011年の春先頃、花粉の交配をする前に、なんとガイガーカウンタを農家仲間が貸してくれたんです。「チェルノブイリの後に買ったんだ」って(笑)。「使う?」って聞かれて、毎日使ってるから短時間という条件で借りてきて、その時は「持ってるんだ!」と驚きました。

ーでは、今になれば、かなり心配やわだかまりは払拭されてきたということで間違いないですか?

阿部 ある程度の心配は払拭されました。でも、市が一番最初に畑の除染をしに来た時の約束は、剥ぎ取った土は「3年で持って行く」というものでした。また、除染した土を持っていくのは、置き場所が園地内じゃないと難しいというので、そういったお願いされたんです。それで今、600坪くらいの土地はそれ以来、除染土がずっと埋まったままで何もできない土地になっています。だから、とっくに3年が経って、一応農政課の方に「どうなっていますか?」って何度か聞いてますが、人が異動で変わってしまったと説明をされます。あとは当時口約束だったので、新しい担当の方は「引き継ぎで聞いていません」と言ってきます。かたや汚染の厳しかった飯舘村なんかで、汚染土を置いている畑は保障されています。だから私たちも、3年ということでした約束以外のところでは「賠償請求してもいいんじゃないか?」と言っています。でもその3年間については、口約束なので何にも証拠がないんです。まさに農民連じゃないけど、何か行動を起こさないと伝わりません。だから、せめて「何らかのかたちにはしようね」と、夫と話しています。だってまだまだ未解決で、何もできない、木も植えられない土地が600坪もあるんです。ADR (※8) に夫が行ってくれましたが、そこでも前例が無いので「対象外です」という対応を受けてしまいました。

2019年7月23日インタビュー


表土を詰め込んだフレコンバッグは1m50cmの深さで掘られた穴に埋められた


表土を5cm剥いだ梨畑




※1 ちぇんばおおまち【チェンバおおまち】
チェンバおおまちは、JR福島駅東口側にある文化施設です。福島市市民活動サポートセンターが3階にあり、会議室や多目的ホールといった施設の利用ができます。2011年5月29日に3階の施設を全部使い、子どもを放射能から守る福島ネットワークなどが中心となって
「さよなら!!放射能祭りin福島市」が開催されました。

※2 しーあーるえむえすしみんほうしゃのうそくていじょ【CRMS市民放射能測定所】
CRMS市民放射能測定所は、2011年7月17日に福島市で開所した市民放射能測定所の通称になります。頭にあるCRMSは市民放射能測定所の英語表記となる、Citizens’RadioactivityMeasurementStationの頭文字を取った略称です。現在のNPO法人ふくしま30年プロジェクトへとつながる前身の団体です。

※3 ちぇるのぶいりげんぱつじこ【チェルノブイリ原発事故】
1986年4月26日、旧ソ連ウクライナ共和国北辺に位置するチェルノブイリ原子力発電所で発生した、原子力発電開発史上最悪の事故であり最も被害の大きかった核災害です。

※4 ふくしましがそくていをうけつけないひんもく【福島市が測定を受け付けない品目】
1.販売目的の食品等(測定結果を販売用の証明として使用することはできません)
2.原子力災害対策特別措置法に基づく国からの摂取制限指示のある食品等
3.安全が確認され流通している食品等
4.福島県産の米(米は全量全袋検査の対象のため、生産者の方は全量全袋検査を受けてください)(福島市サイトより)

※5 こいでひろあき【小出裕章】
元京都大学原子炉実験所助教。工学修士。1949年8月、東京の下町・台東区上野で生まれる。68年、未来のエネルギーを担うと信じた原子力の平和利用を夢見て東北大学工学部原子核工学科に入学。しかし原子力について専門的に学べば学ぶほど、原子力発電に潜む破滅的危険性こそが人間にとっての脅威であることに気づき、70年に考え方を180度転換。それから40年以上にわたり、原発をなくすための研究と運動を続ける。2015年3月に京都大学を定年退職。現在は長野県松本市に暮らす。(『フクシマ事故と東京オリンピック―真実から目を逸らすことは犯罪である。』著者紹介より)

※6 ひろせたかし【広瀬隆】
東京生まれ。早稲田大学理工学部応用化学科卒業。大学卒業後、メーカーの技術者を経て、執筆活動を開始、医学文献等の翻訳に携わります。1986年4月26日にチェルノブイリ原発事故が発生すると、『危険な話』(八月書館、1987年)で、原子力の危険性を主張しました。(Wikipediaより)

※7 ふくしまけんのうみんれん【福島県農民連】
農業と農家の経営を守る目的で、農家が自主的につくった団体で、47都道府県に連合会があり、20年の歴史があります。思想・信条・政党支持の自由のもとで、みんなで力を合わせて農業を続けていくための様々なとりくみを進めています。(農民連サイトより)福島県農民運動連合会の略称が福島県農民連です。原発事故と損害賠償を活動の柱の一つとしています。

※8 えーでぃーあーる【ADR】
ADRとは訴訟手続によらない紛争解決方法のことです。「Alternative(代替的)」「Dispute(紛争)」「Resolution(解決)」の頭文字をとって「ADR」です。日本語では、代替的紛争解決手続とか、裁判外紛争解決手続と訳されます。ADRの種類にはあっせん、調停、仲裁があります。(公益社団法人民間総合調停センターのサイトより)東電を相手にした場合は、国の原子力損害賠償紛争解決センターが調停して和解案を提示します。しかし、2018年度あたりから東電側が和解案を拒否し、センターが手続きを打ち切るケースが急増しています。現状は、制度が機能不全を起こしているようです。