3.11を語る

小泉淳(農家)

こいずみ じゅん
東和町(現二本松市)生まれ。自営業の傍ら、 EMで有機物(米ヌカ・油カス・魚カスなど)を発酵させた資材、いわゆるEMボカシ肥料で有機農業を営む。


セシウムを初年度から測った


ーやはり川の水は心配でしょうか?

小泉 心配です。流れてきたものに何かが混ざり込んでいるかどうかは、知りようがないので。

ー原発事故直後は、地下水脈はすべて繋がっているので、福島第一原発で汚染された水があらゆるところから出てくるんじゃないかという心配までありました。

小泉 でも、さすがに地下水は大丈夫ですよね。ただ当時は、確かに何がなんだかわからなかったから。

ー市民による測定所ができる前は、心配が募る方々には、井戸水を事前にいちいち測りに行く徒労もありました。

小泉 ですから、そういった市民測定所ができたのは、本当に心強かったです。実際何が何だかわからなかったし、そもそも放射能自体、誰も詳しくありませんでした。
でもうちの場合、東京に住んでいる甥がたまたま工業大学にいて、サーベイメータ (※1) を持っていたんです。それで初期の頃に測ってみたんですが、東和の付近で80  μSv/hありました。半減期が約1週間のヨウ素がまだあった頃、1号機の爆発は風の向きで大丈夫だったんですが、特に3号機の爆発の後がひどかったです。
最初は地震で瓦が落ちたのを、一生懸命直したりしていたんです。でもサーベイメータを持っていたので、測ってみて「これは外に出ちゃダメだ」ということになりました。

ーお住まいは福島県の中通り、二本松の東和地区ですか?

小泉 厳密な住所は二本松市の太田で、旧東和町にあたります。ウチでは肥料を自分で、EM菌 (※2) でつくっていますから、原発事故の時はもう「畑がダメになっちゃった」と思いました。それでツテを頼って北会津に畑を借りて、そこには3年間通いました。
ですから、東和での農業は一回やめたんです。どうしていいかわからなったから、とりあえず2011年の春から北会津でじゃがいもとかをつくり始めました。同時に家の方では、どういった方法が一番効率良く放射能を取り除けるか、元に戻るのか、それをいろんなところに行っては調べてまわっていました。

ー東和地区は、頼もしい有機農家さんが多く住んでいるエリアという認識です。

小泉 でも、だからといって放射能対策で一枚岩になれたかというと、それもちょっと違うんです。つまりそれは、ざっくり言ってしまえば、気づいたら「土を混ぜれば薄まるよ」という感じが主流になってしまったのでした。
でも私たちは、そもそもいい肥料からして、自分たちでつくっていたわけです。仲間3人でやっていたんですが、「畑の土を下から掘り起こして混ぜるだけでどうなんだ?」ということがあり、まず田んぼも畑も表土を剥いだんです。

ー長年かけてつくったいい土を剥ぎ取るのは、お辛かったんじゃないかと思います。

小泉 でも、しょうがないよね。だって、やっぱりどうすると放射能を一番取り込まないで作物をできるかって考えると、表土を剥ぐしかなかった。だから私たちは10 cmくらい剥いで、あとは土の入れ替えもしました。
ウチでつくっているのは野菜全般で、家庭菜園というか、野菜は100 %自給していました。田んぼもありますが、私は初年度は何もつくりませんでした。
EM菌を一緒にやっている友人は、水に溶けるセシウムもあるということで、何度も水を溜めては抜いて、さらには上からゼオライト (※3) を入れました。3、4回それをやって、ゼオライトを撒いて、例年通り自分の肥料でつくったら初年度から放射能は検出されず、作物は大丈夫だったという結果でした。ですから、EM肥料は頼りになりました。

ー初年度から放射能の作物への移行はなかった。

小泉 ありませんでした。とにかく大きいのは、初年度からゆうきの里(東和) (※4) ではセシウムを測ったということです。結局茨城でもどこでも、基本的にはセシウムが作物から出ちゃうと売れなくなるから、そもそも「測らない」という判断がありました。ですから、調査に来ていた新潟大学の先生に「ここは何で測ったりしたんだ?」と聞かれて(笑)。
その理由はやはり、自分で食べる野菜だからだよね。もちろん出荷もしていますが、何より自分たちで食べるものだから、安全がすごく大事なわけ。
その新潟大の先生によると、私たちの地域は御影石が土になった地域とのことでした。それで、石に放射能がくっついて野菜が結果的に守られ、だから測定しても数値が出なかったんじゃないかというのが先生の推測でした。

ーそもそもいい土をつくっていると、粘土質でそこに放射能が吸着されるということがあります。また、カリウムが豊富な土壌では、野菜はわざわざセシウムを吸わないということがあります。

小泉 つまり、土壌に十分な栄養があれば、放射能を吸わなくても野菜は育つんだよね。

ー笑い話で、野菜の方が選別できて、人間より頭いいじゃないかと(笑)。

小泉 当時100 Bq/kg以上の米の測定結果が出た人の話を聞くと、使っていたのは化学肥料で「一発肥料」というのがあるんです。10アールの水田に20kgの肥料を3体撒けば、もうその年の米はできるというのがあって、その方はそういう肥料だけを使っていた人でした。
それからウチは堆肥とか、ようりんとかケイカリン、いろいろな肥料をやってたから数値が出なかったみたいですね。
でもとにかく、心配はしました。だって「本当にこれ食えんのかい?」と思って、その度にふくしま30年プロジェクトさんにはしょっちゅうお世話になりました。ウチは今も毎年、作物を測っていますので。

自分で安全なものをつくる

ー行政の動きはいかがでしたか?

小泉 1年くらいは見えてきませんでした。東和の道の駅には、三井物産の基金からいただいた測定器がありました。それは放射能対策への助成みたいなかたちでお金が出て、そこに集っていた人たちは初年度から測っていました。だから、測ってもらうために、いつも作物を刻んで持って行きましたね。

ー採れたての、美味しい食材をなんで毎回刻まなければいけないんだ、と。

小泉 そうです。だって一度測定のために刻んだものは、もう食材にできません。
EM菌の比嘉照夫先生 (※5) の話もしょっちゅう聞きにいきました。そして先生の話を聞いて、「この肥料なら間違いない」という自信を持ちました。それで事故後2年目からは、会津と一緒に自分の家の方でも野菜をつくったんです。それで測ってみると、ほとんど変わりはありませんでした。

ーそもそも、剥ぐ前の土壌は測ったんですか?

小泉 測りました。すると、この地域の土は平均3,000 Bq/kgでした。そして表土を剥ぐと、それでも400 Bq/kgほどはあったでしょうか。また、土壌の入れ替えをしたところは二桁くらいでした。
入れ替えをしたのは自分の家の土地で、どうしてもハウスを建てて野菜をつくりたい場所でした。そこでは表面の土を脇に寄せて、代わりに新しい土を持ってきて、そこにEMの肥料を入れたんです。

ーお話を伺っていると市民測定所ができるまで、大変な、初体験の苦労が続いたようです。

小泉 市民測定所ができたことは、本当に重要でした。当時本当に、いろいろ調べたんです。そうすると東京あたりで放射能を1検体測るのに、1万円以上かかってしまう。その価格を見て、「これどうするの?」って。

ーだからこそ行政や東電が、本来なら本腰を入れてやるべきことだった。

小泉 ですから、それぞれが自分でやらなきゃならなかったわけです。それで、いろいろ動いた先で「これ食べられますか?」という質問をすると、「それはあなたが決めなさい」と言われました。
子どもは嫁に行ったので一緒には住んでいませんが、やっぱり一番は、孫たちに食べさせるのが心配でした。それはしかも、買った野菜だって同じです。だから、「自分で安全なものをつくるしかない」と思って(笑)。
その上説明を求めに行くと、人によっては「放射能は化学肥料のチッ素とか除草剤と同じだ」みたいなことを言うんです。「その程度のものかい?」、「それとは違うだろう」と思いましたよ。確かに化学肥料のチッ素も毒は毒なんですが、だからといってそれと放射能を一緒にするというのはどうかなって。

ーふくしま30年プロジェクトのことは、どのように知ったんですか?

小泉 一番最初に原発が爆発した時、フランスから人が来たんです (※6) 。その時一緒にいらした方が市民測定所のメンバーでした。それが6月頃だったと思うんですが、その時「あ、これが待ってたやつだ」と思いました。
そのちょっと前、福島市で5月29日 (※7) に「お野菜持ってきてくれれば測ります」という時も行きまして、たまたまNHKの取材も受けて、私はテレビに出たんです。それを観た人からは、「あそこで何やってたの?」という風に聞かれました。あの時はさやえんどうを持っていきました。

ー最初の数値や、他に印象的だったことはありますか?

小泉 その時の測定結果だけは持っていないんですが、他のものは私、全部持っています。確かあの時は、数値がホワイトボードに書き出されただけでした。その後、近所の道の駅東和に測定器が来てからの測定結果は、全部保管してあります。

ー道の駅東和の測定器、ふくしま30年プロジェクトの測定器はどういう風に使い分けていましたか?

小泉 例えば、道の駅ではお米は測ってもらえませんでした。それはその後、米や大豆の出荷制限が解除されてから測れるようになったんです。それまでは個人的に測ってはいけなかった。だからその間玄米や大豆は、ふくしま30年プロジェクトさんで測ってもらっていました。

ホールボディカウンター

ー3人のお仲間の結束は固かった?

小泉 私たちは測定も、結果を受けての情報交換も、3人でずっとやってきました。
今、10 Bq/kg以下は「ND=検出されず」とされています。ですから、それはもう「食べよう」と言っていました。でも道の駅で測って3 Bq/kgとか7 Bq/kgが出ると、私は食べるかもしれないけど、子どもたちには食べさせませんでした。
ホールボディカウンターで自分たちの身体を測りに、ふくしま30年プロジェクトに行ったこともあります。当時は福島市や二本松市だと子ども以外で身体を測る場所がなかったので、「(数値が)出たってどうってことないわ」とか言いながら測定しに来て、みんなそれなりの数値が出ちゃったんです。出なかったのは私と、高校生の子どもがいるお母さんの2人だけでした。
その時はさすがにみんなビックリしていました。今まで「放射能なんて」、「ホールボディカウンターなんて」と言っていた人たちが、さすがにしょんぼりしてしまって、「今後は気をつけていこう」って。それまでは、「そんなもの」くらいに思ってたのに。

ーホールボディカウンターは相当高くないと、なかなか数値は見えてきません。

小泉 体全体で300 Bqとか、その時は1,000 Bqといった数値が出た方もいました。でもそれは、「ホントに出んのかい」と数値を出すためにしいたけをわざと食べたとか、基本的に「放射能なんか大丈夫だろう」という立場の方でした。
それまでも、小学生が農業体験で来ると「ウチのは大丈夫だから食べな」ってあげちゃっていたり、それを私は「ホントかい。孫にも食べさせてんの?」と思って見ていました。まあ、地域によっては本当に低いところもあるし、みんなの対応もマチマチにならざるを得ないのは、確かにそうなんです。

ー今でも心配は絶えませんか?

小泉 絶えない、絶えない。やっとこの頃、ちょっと落ち着いたかなという感じがします。
お米は、成田空港脇で、未だに土地を売らないで農業をやっている人がいるんです。震災直後頃、大阪から避難所に支援に来た方がいて、途中で成田に寄ってそこで野菜を買って避難所で配っていて。
その方がウチにもお野菜を持って来てくれたんですが、お礼にお米を30kgあげて持って帰ったけれど、やはり心配だったんでしょうね。精米して測ったらしいですよ。そうするとウチの米は、24時間測ってもまったく数値が出ませんでした。それが、事故から2年目のことです。

ーすごいことです。

小泉 玄米ではさすがに少し出たんですが、精米して洗ったらまったく出なくなりました。でも、そうしたら向こうで「福島の米は大丈夫だ」となっちゃったみたいで、でもそれは全部が全部大丈夫というわけではないので、、

ー安全な上に、とても美味しいお米。

小泉 ウチのは本当に、美味しいですよ〜!甘みがあって。

ー豊かな土は作物を放射能から護ってくれるということはありつつ、そうなると国は山を除染しないことにしたわけで、心配の矛先はおのずと川の水となっていきます。

小泉 ここ1、2年特に落ち着いてきた気はしていますが、まずは自分でつくっている安心感があります。それから測定も、二本松市では市役所で、非破壊 (※6) のもので10 Bq/kgまでを測れるようになりました。その導入は2014、5年くらいだったと思いますが、それでだいたい何でも測れるようになりました。


小泉さん 平成30年度産玄米を測定した結果



家族の結束


ー行政にもっと早く頑張って欲しかったという想いはありますか?

小泉 でも二本松市は、当時の三保市長が頑張ってやってくれていました。お米の測定だって三保さんの提案でした。木村真三さん (※9) がアドバイザーで入っていたこともあって、市長の采配は、子どもたちに地元の野菜は食べさせないとか、給食でも、「お米を自分で持って来たい人はそれでいいですよ」というものでした。そういう状況は、例えば福島市の人と話すと地域によって全然違うようで、特に子どもがいる親御さんには「羨ましい」って言われました。

ー三保市長は事故後一度落選されて、最近再選されました。

小泉 三保さんは事故後2、3年やって落選してしまうわけですが、あんなに一生懸命やってくれたのに、まさか落ちるとは思いませんでした。あの時は首長ドミノみたいなことに三保さんも巻き込まれて、私としては不安というか「あ、これは自分でやるしかないんだわ」と思いました。
だからいろいろやって、あらゆるところに行って、勉強したんです。こんなにあちこち行ったのは初めてで、行った先でいろんな人に会って、情報交換をしました。

ー抜きん出た行動力がおありだった。

小泉 行動力は、私は決してある方じゃないんです。でも、放射能に関しては知らないことだらけでした。とにかく心配だったので、「行くしかないわ!」と思って動きました。

ーご家族の反応はいかがだったんでしょうか?

小泉 みんながだいたい同じ意見だったから、よかったです。もし、「あんただけ何やってんの?」と言われていたら、困ったと思います。毎回「行ってきます」って出て行って、「そんなとこ行くな」とも言われず、帰ってきてからはその日にわかったことや勉強したことを報告しました。家族も「これはどうなの?」と聞いてくるので、わかる限り答えていました。
近所の方々には、あんまり関心なかった人もいます。私にしてみれば「え、大丈夫なの?」という感じ。「どうせ年寄りだから、あと30年も生きないわ」という意見を聞いて、「そういう話じゃないのにな」と思いながら(笑)。
だから私たちは家族で、いわきにある市民測定所のたらちね (※8) から二本松に出張に来てくれた時にも、甲状腺の検査で癌かどうかを調べてもらいました。そうしたら「あなたは歳だから嚢胞がある」って言われて、でも「この原因は放射能じゃありません」って(笑)。

ー自分で動き、調べたおかげで、比較的落ち着いて暮らせた。

小泉 そうですね。学生時代から考えても人生で一番勉強したと思いますし、本もいろいろ買いました。なるべく楽な方に行きたいんだけど、妹も勉強していて電話よこすんですよ。「これ危ないよ!」、「あれ危ないよ!」って(笑)。
彼女はその後胃癌で亡くなっちゃったんですけど、東和町と同じように二本松市に合併した安達町に住んでいました。
妹は役場にも毎朝電話するくらいで、彼女が一番頼もしかったです。だから「ちょっと、ストレスもあったのかな?」と思うくらい。当時の彼女の動きは、今でもYouTubeで検索すると出てくるんですよ。

ー中通りは比較的空間線量が高いエリアで、そこにいろいろと意識高い、行動力ある方々がいた。

小泉 その妹が弁護士を頼んで、当時25万円くらいしたガイガーカウンターの代金や、保証してもらう分のお金も、東電からしっかり全部いただきました。

ーお野菜の出荷先はどこだったんですか?

小泉 私は道の駅東和だけです。

ー農協経由で無防備に県外に行く野菜でない、何重にも安全を確認した作物をつくられているのに、現場を知らない県外の方が「危ない」とか「(福島産に)触るな」、「(福島に)行くな」とか言うのは、どう聞こえていましたか?

小泉 私にしたって、もし県外に住んでいれば、福島の野菜は買わなかったと思います。ただ言いたいことは、私はいろいろ測っていてわかるんですが、すべてが「風評」ではないんです。放射性物質は本当にあります。だから私は、「風評」という言葉に違和感があるんです。
今でも大豆なんかは数Bq/kgでも出ます。その度に「え、これを食べようか、食べまいか」と迷います。道の駅の測定はとても正確に出ます。それはEMの土壌でも出てくるので、それを私は風評ではないと思っています。

ー事故前は山菜もよく食べられたんじゃないでしょうか?

小泉 人の手をかけない山菜は、例えばコシアブラなんかは今でも1,000 Bq/kgという数値が出たりしています。もちろん事故前はワラビ、タラノメ、コシアブラ、フキとか、よく食べていました。
だからフキは、会津に採りに行きました。私は家のまわりは全部除染して、土を剥いで、そこから出てきた山菜は食べました(笑)。もちろん測って、水にさらして、茹でて、それで「どれだけ減る」という話も事前から聞いていたので、「これなら大丈夫だ」ということで。

ー余計な苦労は本当に増えたけれども、やれる限りの方法で乗り越えてこられた。

小泉 確かに、余計な苦労とお金は本当に増えました(笑)。でも、いろいろな人に出会いました。会津に行ったって、「中通りは気の毒だな」と言ってくれる人がいたりとか、「じゃあスイカ持っていけ」とか、そういうこともありました。

失われた大地

ー特に印象的な出会いはありますか?

小泉 やっぱり大学教授が東京からや、新潟からも来て、そういう人たちが一年間やった成果を道の駅東和で発表しましたよね。そういう人たちはまさか、こういうことでもなければ絶対ここには来なかったわけです。そしてそういったお話を聞くのは、とても勉強になりました。茨城の大学教授なんか会津に畑を借りたことを話すと、「これは伝説になりますな~」と笑っていました。
私たちの地域には、そもそも個性的な方々が多いのかもしれません。それにしたって、私たちだって最初は避難しようと思ったんです。「じいちゃん」というのは主人の父親ですが、震災の後に具合が悪くなっちゃって動けなくなったんです。そうでなければ、旅館でも何でも泊まって「一ヶ月くらいはどこかに行こう」という話はしていたんです。

ーお話を伺っていると、苦労をすごくされた上で、何といいますか、ある種の豊かさを手に入れられた印象があります。

小泉 「自分でやるしかない」と思ったから、苦労は苦労でした。じいちゃんは地元で議員をやっていたんですが、結局は自民党だったんです。だから、当時原発ができるって時に「もし事故があったらどうなる?」という話になって、その時「阿武隈川からこっちは全部ダメになる」と言っていました。じいちゃんも自分が推進派だったわけで、だから「ショックで事故後、歩けなくなっちゃったのかな」って思いました。ガッカリして、じいちゃん「もう今年は米なんかつくったって、売れねえぞ」って、その時初めて言ったんです。

ーそういった、お爺様の弱気な発言は珍しいことですか?

小泉 じいちゃんがそう言うとは思わなかったね。議員だから知っていたこともあるだろうし、責任みたいなものも感じたのかもしれないけれど、でも農家はだいたい自民党だから。
だから、いくら役場や東電が「絶対大丈夫」と言ったからって、それでも家族が「もしものことがあったらどうするんだ?」と聞くと「川からこっちは全部ダメ」ということで、じいちゃんもその話はポロッとしたんだよね。原発ができたのは、木村守江さん (※9) が知事やってる頃だった。

ーそれを聞いていたご家族も感じることはあった?

小泉 ありました。だからこそ、私があっちこっち言って話を聞きに行っても、「そんなとこ行くな」ということは一言もなかったんです。3世代6人で住んでるんですが、家族の結束はこれがあって強くなったかもしれません。
そしてとにかく、そういった活動の中で測定は大事でした。
今後も放射能は無くならないわけです。みんな「もう無くなったべ」って言ってるけど、冗談じゃない、ずっと無くならないよね。私はそこを勉強し続けてきたわけで、「これは大変なことだわ」ということで、だからこそEM菌の肥料をつくり続けないといけません。

ー事故が原因で、圧倒的に「これが失われた」というものは?

小泉 大地も山も失われたと思いますよ。もう、元の地域ではない。山菜だって、本当に山の中のものは食べられません。だから原発は全部廃炉にして欲しい。私はもう、原発推進派には投票しません。
あの時は、「もう食べられるものはなくなった」と思いました。福島県人でなければ福島のものは買いませんし、瞬間的に「日本は終わった」と思ったんです。3号機の爆発の時、やっぱりあの黒い煙にはビックリしましたよね。
この日本で、チェルノブイリ以外で起きたことがないことが起きて、悲しかったです。

2019年7月23日インタビュー



※1 さーべいめーた【サーベイメータ】
英: survey meter. 空間線量率の測定や表面汚染の検査などに用いられる小型で可搬型の放射線測定器です。(ATOMICAサイトより)

※2 いーえむきん【EM菌】
有用微生物群(ゆうようびせいぶつぐん、英: effective microorganisms、EM)とは、株式会社EM研究機構と関連会社の販売する商品です。1994年に同社の代表取締役会長兼社長の比嘉照夫氏が命名した微生物資材のことであり、『EM』は商標にもなっています。通称EM菌。(Wikipediaより)

※3 ぜおらいと【ゼオライト】
ゼオライト(英: zeolite)は、粘土鉱物の一種として、1756年に初めて発見されました。ゼオライトはその機能を活かして工業触媒、吸着剤、ビルダー(洗剤助剤)、乾燥剤、イオン交換剤、さらには排水処理、肥料、および、飼料添加物など実に幅広く利用されています。(一般社団法人日本ゼオライト学会サイトより)セシウムも吸着しやすいということで、農作物へのセシウム移行対策で利用されました。

※4 とくていひえいりかつどうほうじんゆうきのさととうわふるさとづくりきょうぎかい【特定非営利活動法人ゆうきの里東和ふるさとづくり協議会】
二本松市に合併した旧東和町の農家と商店が中心となって、2005年に設立したNPO法人です。道の駅ふくしま東和の運営を行っており、直売所で販売する食品は独自に放射能測定を行っています。

※5 ひがてるお【比嘉照夫】
1941年沖縄県生まれ。琉球大学農学部農学科卒業後、九州大学大学院農学研究科博士課程修了。農学博士。82年より琉球大学農学部教授、2007年より同大学名誉教授となり、同年4月より名桜大学教授及び国際EM技術研究所 所長(現在、国際EM技術センター センター長)に就任。(デジタルニューディールサイトより)

※6 ふらんすからひとがきた【フランスから人が来た】
CRIIRADのことを指しています。クリラッドはフランスの放射能に関する独立系の環境保護NGOで、チェルノブイリ原子力発電所事故を受けて1986年5月にミシェル・リヴァジ欧州議会議員の首唱により成立しました。

※7 ごがつにじゅうくにち【5月29日】
福島市のチェンバおおまちで『さよなら放射能祭り!!in 福島市』が開催され、持ち込んだ食品を受け付けての放射能測定が行われました。

※8 ひはかいしきほうしゃのうそくていそうち【非破壊式放射能測定装置】
食品の放射能測定を行なう場合は、専用の容器に検体を詰めるために切り刻む必要がありました。その手間を省くために、切り刻まずとも放射能測定が可能な測定器が開発され、2014年度から順次自治体に導入されました。現在、非破壊式測定器が稼働している自治体では、ほとんどの測定が非破壊式にて行われています。

※9 きむらしんぞう【木村真三】
第一原発事故直後に勤務先の厚労省所管の研究所を辞し、2011年3月15日から福島県内で放射能調査を開始しました。現在、郡山市在住。二本松市放射線専門家チーム代表。獨協医科大学国際疫学研究室福島分室室長。

*10 とくていひえいりかつどうほうじんいわきほうしゃのうしみんそくていしつ【特定非営利活動法人いわき放射能市民測定室】
2011年11月、福島県いわき市に設立されました。通称は、たらちね。食品・環境放射能測定、ホールボディカウンタ測定、β線測定、甲状腺検査、沖縄・球美の里 いわき事務局を運営しています。

*11 しばのてつお【柴野徹夫】
京都市生まれ。1959年より京都教職員組合専従書記。1973年、「赤旗」採用試験を受け記者になりました。原発の取材に力を注ぎ、危険な仕事に従事する日雇い労働者の存在、敦賀原発の事故隠し、原発に巣くうやくざの実態、札束攻勢に心を荒廃させる住民の姿などをスクープしました。 (Wikipediaより)

*12 きむらもりえ【木村守江】
政治家。1964年に佐藤善一郎福島県知事が現職で急死したことを受け、その後任を選ぶ知事選挙に出馬し、初当選しました。第4代福島県知事就任以後は4期連続当選し、高度経済成長期の福島県知事となりました。第一原発は、前任知事である佐藤善一郎が誘致を正式決定し、木村がこれを継承しました。(Wikipediaより)