3.11を語る

辺見妙子(NPO法人青空保育たけの子代表理事)

へんみたえこ
福島市生まれ。2009年野外保育を中心とする「青空保育たけの子」を創立。震災後福島市から毎日子どもたちを連れて米沢市で保育活動を続けるとともに、地域のニーズに応え、自然体験活動、冒険遊び場、民泊、カフェを展開。


危機的状況


辺見 私たち「青空保育たけの子」は2009年に福島で創立した、保育活動の団体です。「子どもたちを野外で思い切り遊ばせたい」ということから始まって、園舎を持たずに活動をしてきました。それが震災で、私たちのフィールドが放射能に汚染されてしまい、活動の方向が大きく変わってしまいました。
団体には当初約7名の大人が関わり、子どもは震災直前で5名くらい在籍していました。2011年の4月から何人かが新しく入ってくることになり、6名以上でないと「申請する必要がない」とされる認可外保育園として、「ようやく保健所に申請できるね」と言っていたところでした。

ー3.11が起きたことで、その入ってくる予定だった子どもたちはどうなりましたか?

辺見 全員散り散りバラバラになって、もともといた子たちも一時的にしろ長期的にしろ、県外に避難して行きました。そして私は、お子さんをお持ちのお宅は、当然のように「そういう選択をするんだろうな」という風に、少なくとも自分の目に見えていたご家族が皆さんそうだったので、思っていました。でも必ずしも「そうじゃない」ということが、わかったんです。
ある日私のところに、秋田に避難した保護者さんから連絡がありました。それは「福島のお父さん、お母さんたちが放射能から子どもたちを守るための団体を設立するから、準備会に行ってみてください」とのことだったので、「わかりました」と答えて出席しました。それが、青少年会館で開催された「子ども福島ネット」立ち上げ準備会でした。
そこで、コアグループに分かれて何人かで話した時に、私ははじめて「現実は私たちが知っていることと、まったく違うんだ」、「ほとんどのご家庭が避難してないんだ」ということを知りました。しかも、その時ですでに「放射能について話すことがタブーになっている」ということがわかって、愕然としました。

ーご自身の感覚と現実社会のギャップに驚かれた。

辺見 私たちは比較的ネットから情報を得て、あとは原発に前から反対してきた県外の知人から「すぐ逃げて」という連絡があったので、「これは危機的状況だ」ということはわかっていました。
でも市政だよりとか、紙媒体で、全市には「大丈夫だ」ということが配布されていました。各ご家庭のおじいちゃんおばあちゃんと若い家族の間の分断が「ここから起きているんだ」ということを、その時初めて知りました。
私も3月20日だったと思いますが、県の健康アドバイザーだった山下俊一さんの話をラジオで聴いて、「福島は結構大丈夫なんだ」と思いました。というか、やっぱり、そう思いたかったんです。あの時は「福島にいたい」という気持ちに寄り添った、そのままのことを言ってくれた感じでした。

いじめの構造

辺見 その後、自分たちでいろいろ勉強などしていって、「政府は『20 mSv』と言ってるけど、これって危ないんじゃないの?」という風に、だんだんそういう気持ちになっていきました。そうしてどうやら「国の言っていることは信用ならない」と思い始め、そこがスタートになりました
しかも、ちょうどその「子ども福島ネット」立ち上げ準備会では、私は当時放射能に関する知識がまったくなかったので「放射能に関して勉強をする」グループに入りました。すると、他のメンバーがみんな県外の方だったんです。それで「リーダーは福島の人がいい」ということになって、「え、私?」という(笑)。

ー「子ども福島ネット」は県内外関わらず、意識ある方々が集まる団体だったんですね。

辺見 他の福島地元の方々は、実は「原発がこれだけ福島県にあるから危ない」ということを事故以前から準備してきていて、本当に一般市民の中でも意識が低い方だった私とは世界が違っていました。そういうことで、驚くことばかりでした。

ーとはいえ、子どもたちの活動もされてきたわけですし、「意識が低い」というのはたまたま原発に関してということですね。

辺見 実は、私は当時放送大学に在学中で、友達から「原発危ないよ」という話を聞いていたりはしていたので、半信半疑でも、そういう話を聞いてはいました。
放送大学では心理と教育コースでしたので、そこで心理統計をとる必修科目がありました。実習なので、私たちのグループでは、テーマ決めをする時に「原発についてアンケートとりたい」ということにしたんです。それで、実際にアンケートをとったら「不安である」という方が実際に多かった。ただ一家族だけ、「まったく心配ない」というご回答で、聞いたらその方は原発で働く職員さんでした。

ーその時から、ぼんやりとでも「関係者は安心安全を語り、一般的には不安を抱えているのが原発」という構図を感じられていた。

辺見 それが2008年くらいの話です。そして実際に事故が起きて、その時は大人としての責任を痛感しました。私はそれまで「福島に原発が10基ある」とか、「プルサーマル (※2) がどうとか」ということにはほぼ無関心で、まさに対岸の火事状態でした。
そして、これはやっぱり「学校で起きるいじめの問題と一緒だな」と。
「いじめ」というのは、どうしても起きるものです。ウチみたいな園でも一人二人にそういうことはあって、でもそれを成立させてしまうのはまわりの人間なんです。それは「傍観者」というか、誰もその行為に対して意を唱えずに「ちょっとそれおかしくない?」という人が誰もいなければ、それは一対一のケンカではなく、集団のいじめになってしまう。
原発事故もそこは同じかなと思いました。

ー子どもたちのいじめと原発が自然と重なった。

辺見 そうです。
自分が大人として、原発がこれだけ福島にあるのだったら、もっと意識をもって取り組まないといけなかったし、危機管理をしっかりしないといけなかったのに、私はまったくそれをしていませんでした。
もちろん国や東電の責任は重いです。でも、大人の一人として「自分にも責任はある」と思ったし「今、子どもたちを何とかしたい」という想いで、毎日福島から米沢に無料送迎で通う保育を始めたんです。
とにかく、やられっぱなしでは「あまりにも悔しい」って。
でも実際に創立メンバーは7名いたのが、今回の原発事故を機に、それぞれ理由はあるんですが、メンバーは入れ替わりました。最初の米沢との往復の頃は当初のメンバーで続けていたのが、結果最後は私一人が残ることになりました。それぞれが別の選択をして、私はそのショックから立ち直るのもなかなか大変でした。

ーショックを受けるような事態が起きた。

辺見 そのうちの一人は、自分のお子さんも一緒に米沢にも通っていたんです。だけど最後年長になる歳に、福島の地元の保育園に通わせるようになりました。その理由は結局、義理のお母さんと同居してらして、お孫さんが「どこに行ってるの?」という話になってしまった時、口籠って答えられなかったというんです。要するに外堀を埋められて、「福島の園に入れないといけなくなっちゃった」って。

ー家庭内での分断は、あらゆるケースで生まれていたんじゃないかと思います。

辺見 でも、あれだけ一緒にやってきて、震災直後も一緒に勉強までして、放射能のことも「何とかしよう」と言って頑張ってきた人が、最終学年で「そういう判断をするんだ」ということがショックでした。
他の保育者も、政府や国が「避難しろ」と言ってくれれば私はする。それを言ってくれないと、「私にはできない」。「ええ?」って。「結局守るのは自分なのに、そういう風に言うんだな」というのもショックでした。
その方のお子さんはウチの下の子と同じ学年で、そのお子さんは野球をやっていました。それで、「青春時代に思いっきり部活をやった」という記憶のために、後から万が一病気になるかもしれないけれども、その時に「『お母さんを恨みなさい』って言う」というのです。
それは、何とも言えない気持ちですよね。

ーその「何とも言えない気持ち」の一番の原因が、一人一人の大人の無自覚にあるのでしょうか?

辺見 東電とか国に頭はきていますが、そこを怒ってみたところで変えられない。変えられるとしたら「自分」です。だから、「自分がそういうことをしでかした」と言ったら変ですが、「そういう判断をしてきたということが一因だな」とは思っています。 
だからこそ、自分ができることをしたいんです。

何とかなる

ーそしてたぶん、それまでのお仲間との別れがあった先に、新しい仲間との出会いもあったのかなと思います。

辺見 私たちは3月に被災した後はほぼ全員、一時的にしろ長期的にしろ県外に避難して、開店休業状態でした。その時も「私たちにできることは何だ?」ということで、、

ー「やめる」という選択肢はなかった?

辺見 なかったんです(笑)。
でもそれも、当時は知識の浅さがあって、当初の放射線はヨウ素が主で、半減期が早いので、どんどん値が減っていきました。ですから「これは半年後くらいにはできるな」と思っていました。セシウムの134、137については知識がなくて「この調子でいくと再開できるね」、「きっと一時的なものだよ」という理解でした。そして、結果はもちろん再開できなかったわけです。
ですから、その間も「今、私たちにできることって何だろう」となった時に、私の中では「広域避難所に避難している人たちの支援だな」と思ったのでした。それは今、子どもたちも避難していてきっと不自由な想いをしているから、本当に微力だけれど、絵本の読み聞かせとかちょっとした遊びの提供というボランティアを始めました。
最初は皆さんの避難先の高校へボランティアに行っていたんですが、高校で授業が始まるので「あづま総合運動公園に移動する」ということで、追いかけて行きました。そこではマックスで1,000名くらい、私が行った当時で800名くらいはいらっしゃって、ただ体育館の地べたに座らされ、ダンボールでちょこっと仕切っている状態でした。「何を食べているのかな?」と思ったら、夕食はカップ麺と菓子パン2つ。もしかしてカロリー的には足りているのかもしれませんが、「これは絶対病気になる」と思いました。それで、炊き出しを毎週一回始めたんです。
でも、正直言って800名の方々に「どうやって炊き出しするの?」って。「どれだけお金がかかるの?」という状況で、原発事故以降に知り合った方々に「こういう大変なことになっていて、なんとか支援いただけませんか」というお願いの発信をしました。その中で、福島のボランティア団体の方から「予算を組んであるから、使ってください」というお話をいただいて、その予算で毎週炊き出しをやりました。

ーものすごい規模です。

辺見 もしお金が集まらなくても、例えば10〜20人で声かけて10食ずつつくったら「意外と何とかなるんじゃない?」という、私は意外とそういう人なんです(笑)。「うん、何とかなる」と自分なりに理解して見切り発車したんですが、資金は集まって、お金は出せないけど手伝うよという調理係の方々も集まってきてくれました。

ー辺見さんはごく自然な流れでそこに行き着いているような感覚を受けますが、普通そこまで動く方はいらっしゃいません。もともとどのような問題意識をお持ちでしたか?

辺見 私は2002年から合唱団に入ってまして、お亡くなりになってしまったんですが、その音楽監督だった先生は、福島大学から宮城教育大学にいかれて、教員の再教育のための合唱団をつくられた方でした。その先生が「常に学びなさい」ということを仰っていて、私はただの高卒の人間だったんですが「自分も学びたい」と思って、そういったきっかけで、放送大学は2年前に卒業しました。
もう一つ、私は20歳で改宗したクリスチャンなので、その教えはずっと心にあります。それで常に、「人に奉仕する」ということが頭にあるんです。
父は早くに亡くなって、母は女手一つで姉と私を育ててくれたんですが、「人と同じことをしても意味ないから、違うことをしなさい」ということと、「人にモノをあげる時は一番いいモノをあげなさい」ということを言う人でした。もちろん母は裕福な方ではなかったですが、人が困っていると自分の箪笥を開けて、その中で一番いいモノをあげていました。ですからたぶん、そういうことが身についているのかなと思います。

ーでは、ああいう渦中で辺見さんがどんどん動いてこられたのは、これまで受けてきた教えの通りに動いただけだった。

辺見 私たちの教会の教えには、「頭に浮かんだことは神様が準備してくれたことだから、できる」ということがあるんです。たぶんだから、「自分の心に浮かんだということは、できるのかな?」という(笑)。
それはわりとそうで、それがもし間違った方向に行っていたら、神様から見て正しくないわけで、うまくいかない。でも、うまくいくんだったら、それが正しいことであれば「きっと何か方法がある」と思っていつもやってきています。ですので、キリスト教の教えが結局私の支えになっているんです。
それに、信仰は関係なく、私以外の皆さんにもそれぞれの事情がありますので、「動ける人が動ける時に、動けるように動けばいいのでは?」とも思います。
それでその800名くらいの人からの要望で、いつも野菜ばっかりだから「肉が食べたい」となったんです。「肉か!」ということで、いろいろ連絡をしたら大阪の方で「いいですよ」という方がいらっしゃいました。「日高牛を送ります」とのことで、私が全然お肉のブランドを知らなくて「日高牛送ってくれるって」と伝えたら、「それ、すごい肉だよ!」って(笑)。
お肉は結局別の方からもいただけて、2回出すことができました。1回目は煮ちゃったんですが、2回目は「お父さんたちの活躍の場が欲しいね」ということで焼肉にして、「頑張って焼いてください!」って。

子どもが強いられたこと

ーご家族構成はどのようになっていますか?

辺見 夫が一人と娘が二人で、上は28、下が24です。上は震災の時は東京の大学生、下は3月の時点で宮城の高校2年生でした。
下の娘はちょうど先輩たちの卒業式に出ていて、体育館の丸いライトが落ちてきて、みんなで椅子の下に逃げて、そのまま広域避難所へということでした。上はいわゆる帰宅困難者になりかけて、インターンをしていたので、先輩の家に泊めてもらって助かったと言っていました。

ー「子ども」というテーマはここ8年間変わっていない?

辺見 実はその時、私たちはただの民間団体だったのがNPOになり、もともと立ち上げの時から言ってきた「大人も子どもも自分で成長する」、「自分で考えて自分で発言し、自分で行動できる子どもを育てよう」ということを定款に盛り込みました。
一つ変わったのが、それまでは福島の子どもたちのことしか考えていなかったのが、山形の子どもたちも加えて、「地元に根ざした団体になっていけたらな」ということです。

ー子どもたちのどの部分に、3.11のしわ寄せが影響していますか?

辺見 それに関しては、私がよくお話させていただいていることがあります。
たけの子に一番最初に入園してくれたお子さんで、「モーくん」という子がいました。彼は一時期北海道に母子避難していて、GWに戻ってきてご主人と一緒に暮らすようになったんですが、その時の彼の精神は「解離状態 (※3) 」というか、非常に不安定になってしまっていました。
私たちは子どもたちにあえてナイフを使わせることがあるんですが、ナイフを貸してあげたらダンボールを切りつける行為を3日くらい続けて、最後の3日目にはダンボールの端っこを三角に切ってくわえて「鳥!」って言ったんです。その時にやっと「少し昇華したんだな」と思って、「じゃあ羽もつくろう」と言って羽もつくって、その時は一緒に写真を撮りました。
その子が母方の実家の北海道と福島を行ったり来たりして、最終的にはご主人が大阪に仕事を見つけ、家族で移住となったんです。その最後の一ヶ月間は、米沢に通わせてくれました。その子は本当に創立からの子で、卒園式の時に「たけの子の思い出はなあに?」と聞いたんです。すると最後の、米沢での一ヶ月間のことしか言ってくれなかったんです。
「子どもだから仕方ないのかな」と思っていたら、卒園式の後にモーくんのお母さんが「福島でのことは『あれもできない、あそこにも行けない』と思うから、思い出さないようにしているみたいなんです」と教えてくれて、私はそれが本当にショックでした。「『たった6歳の子どもが自分の幼児期を封印する』ってどういうことなのか」と、怒りとか絶望といったものが一気に押し寄せてきました。
さらにそのお母さんが、モーくんが「私のところに来て『66まで数えて』って言うんですよ」と。それで66まで数えると安心して離れていくんですが、「どうやら66年経ったら無事福島に戻れる」と思ってるみたいだと。それはセシウム137の半減期が30年で、それが2回と自分が6歳なので、「合わせて66年ということかな」と。それもまたショックでした。

ーそんなことを子どもに強いるこの状況を、何がつくったのでしょう?

辺見 「何なんだよ!」って、本当に思いました。
ですから、私の団体は日常的に野外保育をしたくて始めた団体ですが、「土日の保養」だけでなく日常の園児の活動にこだわるのは、どうしてもそのことが頭から離れないからなんです。
どこであろうと、自分の幼児期を「あんなこともやった」、「こんなこともやった」と思い出せるように過ごして欲しいと、心から思います。

「冷たさ」と「やさしさ」

ー行政には、もっとどうして欲しかったですか?

辺見 本当に正直、チェルノブイリみたいにキチッと、危ないなら「危ない」と言ってくれたらと思いますし、もしそれが無理だとしても、例えばみんなが一ヶ月交代で定期的に保養に行けるようなシステムを構築すべきだったと思います。私たちは本当に不勉強で、チェルノブイリのことにしても後から知りました。

ー現状は少しでも改善されてきていますか?

辺見 私たちはもともと放射能の問題ではなく、団体立ち上げの動機は、子どもがとても「子どもらしくない」というか、それは自分の子たちを見ても感じていました。でも二人とも、それでも夢を持ってる子たちでした。ところが、下の子がパティシエになりたくてそのことを友達の前で喋ると「そんなの夢だよ」と言われる、それが15年も前の話です。
なんだかおかしい。「夢って、寝ている時に見るものだけなのか」って。
子どもたちが将来に夢さえ持てない時代になってきて、なんかこうギスギスして、それってもしかして「子ども時代に遊びこんでないからじゃないか」と考えていました。それは「三つ子の魂百まで」という言葉があるように、幼児期から、非常に管理された中で子どもたちが育っているからだろうと。

ーレールが最初から敷かれている。

辺見 ウチの子は中学校から不登校をして、それは学校だけの問題ではなかったんですが、「まわりの目とか、社会の仕組み自体がおかしいんじゃないかな」ということを感じていました。

ー活動の軸が原発ありきではなく、そもそもの問題意識の中に原発問題が加わっていった。

辺見 今日も地元の保護者の方がいらっしゃって、今は地域の子育て支援センターみたいなところに行っても、お母さん同士で会話も、挨拶もないと仰っていて、また私は驚きました。幼稚園に通っていても、「こちらから挨拶しても、返してくれない人もいるんですよ」ということで、ますますお母さんたちは孤立しているのだなと思います。
そんな中、本当に「苦しい想いをしながら子育てされてるんだな」ということを、再認識しました。これまで私たちは、子どもを生き生きと育てれば、家庭にも影響が及んで、むしろ家庭が変わってくるという風に思ってやってきました。
でも最近、「それだけじゃ足りないんだな」と。親も自分を解放していないと、逆に解放できていないと。ただ子どもに関わっているだけではだめなんだな、ということに気づいたんです。

ー活動を続けてこられて、どこかによい兆候を見つけたりもしますか?

辺見 今年始めた私たちのカフェはほとんど手づくりで、あれもこれもいただきものです。震災がなかったら出会わなかった方々ともたくさん出会えて、自分の知見、知識は広がりました。その上で、「平和の中で安寧に暮らすことがはたして幸せなのか?」という問いは、「また別問題かな?」という気がします。
福島の良さもものすごく再認識しましたし、同時にこの中途半端な、都会なんだか田舎なんだかわからない福島市の冷たさみたいなことも感じました。米沢では、私たちはまだまだよそ者だから余計そうですが、「何とかしてあげたい」という気持ち、優しさを強く感じます。それはやっぱり雪国で、「厳しい自然の中で生きてきている」ということはあるのかなと思います。

ー母数が多いのでどの方向性にもいろいろたくさんいるんですが、とはいえ一般的な東京の冷たさと比べれば、相対的に暖かい気がします。

辺見 私たちは宝を失ったというか、完全に失ってはいないけれど、ガラス張りの家の中から、手を伸ばせばそこにあるんだけれど実際には触れられないというところに住んでいる感覚があります。でも、米沢では実際に触れたり触ったりすることができる。ですから、米沢は私たちから見たら本当に素晴らしいところです。

ー行政が頼りにならない中、どういった存在や団体が頼りになりましたか?

辺見 民間における人との繋がりが一番頼りになったし、私個人のことを言えば、信仰や教会はとても頼りになりました。
たけの子に向けてということはなかったんですが、震災直後、東京の教会本部から福島の教会にはガソリンや水を供給してもらえました。それは本当にありがたかったです。その一番大変な時に、福島の教会員へ直接的な支援があったのです。たけの子に対する支援も一度、少しまとまった額をいただいたことがありました。
私たちは「無料送迎をする」と決めて活動していましたが、その資金は皆さんからの寄付で賄っていました。でもそれも、さすがに「もうお金がない」というタイミングでその支援があったので、とても助かりました。おかげで活動が継続できて、さらに他の寄付も集まってということになりました。

ー無料送迎の需要はどれくらいありましたか?

辺見 モチベーションの根幹は、私個人の、道義上の憤りでした。知人が車を提供してくれて、でも初代のマイクロバスは大き過ぎてそこまで人は乗らなかったので、今は10人乗りのワゴン車をお借りして活動しています。マイクロバスの免許も、そのために5年前にとりました。
私自身、石橋は叩いて渡らないで走って渡る人ではあるんですが(笑)、こういう活動をしていると目的のためには手段を選ばない方もいます。
例えば私たちの教会の場合は、教えの中に「共産主義とは交わらない」というものがあります。ちょっとでもそういう匂いがあると私はそこに行きませんが、「子どもを助けるためならば」どんなところにも行く方もいます。ですので、当時はいろいろな動きがある中で、あらぬ誤解を受けるパターンもあったかもしれません。
私の場合は、デモにはあまり興味がなくて、でもその代わり実際に「子どもたちのために働きたい」と思っています。国の助成金は「私たちが(子どものために)使ってきれいしよう」と思っているんです(笑)。

目指す、その向こう側


青空保育たけの子で運営する施設のリーフレット

ー対立より、どう「一緒に具体的な仕事ができるか」ということを考えられている。

辺見 争いそのものや、それを助長するようなことを私は好みません。
これから私は、今回のカフェづくりとも繋がっているんですが、もともとの創立の意志が大切で、「大人も子どもも共に成長する」という風に思っています。もちろんそれは、子どもありきの目的です。
理想としているのは、最近私がよく「『崖の上のポニョ (※4) 』の舞台になった場所みたいに」と言っている環境です。それは、あの映画の舞台には老人向け施設とその隣に保育所があって、お互いに交流し合っていい関係ができている、そんなコミュニティをつくりたいと思っています。


「どこに住んでいる」、「避難している」、「一時的にしかそこにいない」、「とどまっている」とかは関係なく、「そこに集まった人たちが一つのコミュニティなんだ」、「一時的とかではない、そこにいること自体が新たなコミュニティ」ということで、地域づくりをしていきたいと思っています。
だから、福島から通わせる子はいずれいなくなるかもしれないけれど、でも逆に私たちみたいな保育をしているところってそんなにないので、これからも「越境してでも入れたい」という親御さんが出てくるかもしれません。
それこそ、特に福島市みたいな中途半端な都会の(笑)、行き詰まった幼稚園教育とか小学校とは違う、もっと伸び伸びとした教育を実践していけば、「県外に行く」というだけで気持ちも変わるわけですし、そういう価値観でやっていけないかなと思います。
それでもし保育とかがなくなっても、私たちはもっと「自然体験」ということを日常的にやっていけたらと思っています。

ー「自然体験」は、まだ福島では難しい?

辺見 私はそう思います。やっぱり一番初期の測定からわかってきたように、元の状態に戻るには100年以上かかる、私が生きている間は無理だろうと思っています。
子どもはもともと端っこの、放射能が濃縮してそうなところが好きです。私たちも、本来のそういう遊びをして欲しいと思っています。「子どもは土を食べて免疫力をつけるんだ」ということがあって、それが本当は当たり前のことなんです。福島ではそれが安全にできないし、安心できないのでまだまだと思います。
先ほどのモーくんの話ではないですが、彼が言った「66年」という年数を聞いて、「私はその頃生きてないよ」って。
先日もウチの保育士の一人が、自分の家の除染が終わって、家の前の電信柱と電信柱の間をホウキで掃いて、それを30年プロジェクトに持って行ったら「15,000 Bq/kg出た」ということがありました。それが現実なんです。
私は今、中通りに生きる精神的被害を考える会で集団訴訟を起こしています。それはしかも、訴訟を起こした先で私たちからの和解を申し出ている珍しい裁判 (※5) なんですが、先日初めて、郡山の集団訴訟裁判を起こしている方から「セシウムボール (※6) 」の話を聞きました。
それは、私たちが「体内に取り込んでも排出されるから大丈夫」と言われてきたことと、「違うじゃん!」って。その、ずっと親、そして女として生きてきた勘で、国や東電の説明では腑に落ちないとぼんやりと感じてきたことこそが、やっぱり本当のことであり、真実だったんだなと思いました。
裁判は和解を申し出てはいますが、それも全体に対するものではありません。
一人一人にとっての賠償金額が違っているので、その、裁判長から言い渡される和解金額を「多かろうが少なかろうがのむ」と合意はしているんですが、裁判所の和解案を東電サイドがのむかどうかはまた別の話です。
私たちの心情としては「金額が問題ではない」と。ただ、裁判官に私たちの心をつまびらかにしたかったということと、この裁判そのものは、私たちがその後一歩踏み出すため、「なぜ自分たちの中にこんなに怒りや不安があるのか」ということを、自分自身に問い直す作業だったと思っています。
ですから、この和解を東電がのむということが私たちの勝利ですので、金額の大小はそれぞれあっても「それはそれでよしとしよう」と言っています。実際に一名、すでに裁判中に亡くなっている方もいます。だから皆さん、「いつまでも待てないよね」って。
2014年から準備し、2016年に始まった訴訟なんですが、「勝訴するまで頑張ろう」という風にはしていないのです。私はただのメンバーの一員なんですが、「世話人」という立場の方にかかるご負担は本当に大変だと思います。

2019年8月30日インタビュー



※1 ぷるさーまるけいかく【プルサーマル計画】
原子炉で使用した後の使用済燃料を再処理して取り出したプルトニウムとウランを混ぜた燃料(MOX燃料)を、現在の原子力発電所(軽水炉)で使う計画を「プルサーマル計画」といいます。プルサーマルという名称は和製英語です。(日本原子力発電株式会社サイトより) 現在、日本は約48トンのプルトニウムを保有していますので、これを資源とみなして有効利用を目指しています。また、余剰のプルトニウムを持たないという国際公約から、プルトニウムを削減するための計画でもあります。しかし、実際にはプルサーマルでは微々たる量しか消費できず、焼け石に水だとも言われています。

※2 かいりじょうたい【解離状態】
解離性障害。解離とは、意識や記憶などに関する感覚をまとめる能力が一時的に失われた状態です。この状態では、意識、記憶、思考、感情、知覚、行動、身体イメージなどが分断されて感じられます。(社会福祉法人恩賜財団済生会サイトより)

※3 なかどおりにいきるかい【中通りに生きる会】
中通りの住民で組織する「中通りに生きる会」(平井ふみ子代表)のメンバー52人が、原発事故で精神的損害を受けたとして、東京電力に計約9800万円の損害賠償を求めた訴訟が大詰めを迎えている。原発事故を受け、いくつもの集団訴訟が起こされたが、「中通りに生きる会」の裁判では、初となる「和解」決着を目指している。(政経東北2019年8月号より)

※4 せしうむぼーる【セシウムボール】
原子炉から放出された放射性セシウムの一部は、数ミクロン(μm)以下の微粒子に封じこめられた状態で飛散したことがわかってきました。このような微粒子はセシウムボールとも呼ばれ、一粒子あたりの放射性セシウムの濃度は、汚染土壌粒子等に比べかなり高いため、粒子近傍への局所的な放射線影響が懸念されます。(国立研究開発法人日本原子力研究開発機構サイトより)