3.11を語る

西脇彩乃(主婦・仮名)

にしわきあやの(仮名)
福島市生まれ。2児の母。第2子妊娠中に震災に合う。関西方面に避難経験あり。


知らない土地への避難


西脇 私は1990年に18歳で福島から東京に出て、11年後に戻ってきました。当時の大家さんに「これだけいたら普通帰らないよ」とも言われましたが、ちょうど結婚もしていなかったので、「ここで帰らなかったらもう帰れないかな」と思ったのでした。
すごく迷ったけれど、親に言われたわけでもなく、むしろ言わない親だからこそ余計「いつか帰ってあげたいな」という想いもありました。弟もいるので「家業を継ぐ」とかそういうことでもなく、でも本当に東京で結婚しちゃったら帰る選択肢はなくなるわけで、東京に対する思い入れもあったので、泣きながら帰ってきました。
でもまさか、あんな出来事が待っているとは思っていませんでした。

ー福島に戻った2001年からの10年間は何をされていたんですか?

西脇 戻ってきて5年くらいで結婚をして、家を建てて、子どもも生まれて2人目を妊娠している時に3.11が起きました。

ーそして、避難先は関西方面だった。

西脇 2011年の7月には関西のほうに移って、そこから5年弱現地にいました。
福島の家にいられないのであれば、当初は米沢あたりも候補にあったんですが、「どうせなら」ということで関西を選びました。それはあの時しかできない、「ちょっと異常な精神状態」だったので、まわりにも「無理でしょう?」と止められました。上の子は2歳だし、乳飲み子を連れてなんの縁もない知らない土地に母子だけで行くなんて、でも、その時は「そうすべきだ」って思っちゃったんです。

ー「異常な精神状態」というのは、今もそう思いますか?

西脇 思います。切羽詰まってるし、すべてを天秤にかけて、しかもそれも正確なものじゃないかもしれないけれど「自分で決めていかなければいけない」という、緊迫した状態でした。
それは母性に関わることなのかもしれませんが、必死で「子どもを守ろう」として、すべてを投げ打ってしまうというか。だから、自分の体調が悪かろうが何だろうが、すべては二の次でした。

ーまわりとの温度差はどう感じていましたか?

西脇 上の子は2歳だったんですが、その後福島の親たちを対象にしたアンケート調査の統計で、7割の人が「一回は県外に出ている」と答えています。ということは、大多数の人が期間の長い短いはあっても、やっぱり「危険だ」と思って県外に出たわけです。それに、私のまわりで繋がってる人や仲良しの人たちは子どもの年齢も近いし、もちろん「何で行くの?」と言われたこともありましたが、温度差という点ではそんなに気になりませんでした。

ー2歳と乳飲み子を抱え、一人故郷から離れて知らない土地へ移住というのは、苦労は図り知れません。

西脇 今2歳の子を見ると「ありえない」と思うんですが、当時は2歳の長女が頼りでした。でも、ずいぶん「大人にさせちゃったな」とは思います。もちろん彼女にも爆発する時はあって、眠くなったりすると暴れて、つい手を上げそうになるというか、私も耐えられなくなることがありました。
当然彼女にも「なんで住む場所を変えるんだ」とか、「大好きなおじいちゃん、おばあちゃん、それにお父さんと離れて住むんだ」というフツフツとした想いはあったでしょう。私も一応、説明はしました。でも2歳児にその状況がわかるわけはありません。いろいろな溜まっているものがあってたまに困らせられましたが、それ以外は比較的いい子というか、いい子にならざるをえなかったんでしょうけど。

ー関西にいる間に7歳になった。

西脇 当然私も他の子を育ててないからわかりませんが、きっと手のかからない子だったと思います。それは、性格の部分も大きかったんじゃないでしょうか。
彼女は戻ってから、子どもだけの保養にも行って自分の経験を発表したり、そのために私と一緒に関西の思い出を作文にしたりしています。この間も岡山、和歌山といった関西方面に保養で行って、その都度各地で発表をする機会があるので、彼女なりに身に沁みている部分はあるでしょう。
2年生にあがるタイミングでこちらに転校してきて、もちろん関西のほうでの別れを悲しんでいましたが、友達に恵まれると子どもは馴染んでいきます。避難中は私と、途中からは夫もいましたが、こちらではおじいちゃんおばあちゃんの家があるし、弟夫婦の家もあるし、そういう環境で「抜く」場所があるというか、甘えられる場所ができて精神的に安定しています。

ーご自身は異常な精神状態から抜けられましたか?

西脇 この場所で暮らしているので、それをまったく消すことは絶対できないんですが、やっぱり「落ち着いちゃった感じ」はあります。でも、私だけでなくまわりを見ていても、「『暮らす』ってこういうことなんだろうな」と思います。

ー何か明確なきっかけ的なものはあったんでしょうか。

西脇 きっかけはなくて、「年々ここで暮らしていること」ということだと思います。それはいいのか悪いのか、ただはっきりしているのは「そうじゃないと生きていけない」ということ。それは、当時の精神状態のままいけば、どこかで壊れて成り立っていなかったと思うので。
とはいえ「落ち着いた」からといって、不安は消えないし常に意識する部分はありつつ、同時に自分の地元ということで癒されている部分もあります。

福島

ー関西の前は東京にもいたわけで、外から見た「福島」はどういう土地ですか?

西脇 「東北」というだけで思うことはいろいろありますが、西に行ってみると余計、言葉はもちろん表現の仕方、気性も違うと感じました。ただ、基本的な部分は「お互い日本人なので」ということもあります。
だから、たとえ原発事故が関西で起きたとしても、福島の時は「みんな県外に出て」とか「デモでもして、もっと怒りをぶつけろ」みたいなことを言われましたが、関西の人は関西が大好きじゃないですか。だから意外と「何もやらないのでは?」、「守る方向にいくんじゃない?」ということもあるんじゃないかと感じます。
あちらでは大阪にもよく行きましたが、関西のなかでも大阪は大阪で気性が全然違う。だから、場合によってはすごく怒る方向に行くことも考えられるし、意外と守る、何も言わない方向に行くこともあるような、「どっちの方向にいくかわからないな」ということを思いました。

ーそして、最終的に「ずっとここで住もう」とは思わなかった

西脇 私が18歳で出たのが東京だったということにも、意味があります。それは、もともと東京より西の方にそこまでの興味がなかったから。それは、あちらの人にしてみたら逆に「福島県ってどこにあるの?」という、そういうことと同じだと思います。東京にいた頃でさえ、自分が福島出身なことを伝えると「九州でしょう?」って、福島を福岡と間違われる、「故郷はもともとそれくらいの薄さなんだ」ということを感じていました。
それが、今回みたいなことで有名になってしまったのが、悔しいです。
ですからそこは、個人の好みとか好き嫌いという単純なことで、西には旅行では行きたいけれど、東京から先に住んでみたいと思ったことがない、そういう気持ちの中で選ばざるをえなかった場所でした。「西日本の食は安心」という、実際にそこだけは何の不安もありませんでしたが、じゃあ「このまま住みたいか?」という話になると、常に居場所のないアウェイな感じが強くありました。
わかったことは、私は基本的に福島とか東北が好きなんです。それで、東京には単純に憧れややりたいことがあったし、東京には実際暮らしてみて、ある意味完結して福島に戻ったわけです。それこそ40くらいで新たに「新天地に住もう」というのは、私には思えなかった。
もちろん決断してそのままあちらに住んでる方々もいます。それには純粋に、「すごい」と思っちゃいます。だからそこは本当に好みや性格で、一緒に避難した人たちの中には「すごくやりやすい」という人もいました。

ー改めて気づいた、東北や福島的なものとは何でしょう?

西脇 まず特徴的な訛りや、モゾモゾ喋る喋り方、田舎なイメージがあります。でも、あんなことが起きて「実はこれ、どこでも対応は変わらないんじゃないか」と一度思っちゃった後は、「福島だから特別こう」という想いがなくなりました。それは逆に、一度外に出た経験からそう感じたんだと思います。

ー「人間なんてしょせん、、」という風に、ある意味達観してしまった。

西脇 そういう感じかもしれません。
福島の「魅力」と言われるとあまりないのかもしれないけれど、これだって自分の故郷だからかもしれませんが、「本来、本当にいいところだよね」って。野菜や果物だって、あれだけつくってずっと関東の食を賄ってきて、いろいろ悔しいです。

失くしたものと、得たものと

ー今も続く生活の上でのストレスは何でしょう?

西脇 例えば外食とか、どこ産のものを食べているかわからない時は目をつぶっていますが、自分で買う時はやはり選んでいます。加えて、今も自分で県外から取り寄せている食材もあります。でもそれも慣れちゃって、当たり前になっています。
あとは息子がものすごくサッカーにはまってしまっていて、とにかく週5回くらいのペースで練習と試合があります。一週間のほとんどをサッカーで過ごして、やっぱり土をつけて帰ってきます。今小学校2年生で、サッカーほど被ばくのリスクを感じるスポーツを「なんで、わざわざ?」と思うけど、あんなことがあったがために、被ばくさせたくないからといって好きなことをやらせないというのは本当に悔しい。だから、そういう風には考えないようにして、やらせています。
でも、考え出すと「うーん、、!」となりそうになるんです。
息子は土を持って帰ってくるというか、お風呂場で脱いだ後に床がジャリッとするような時もあるので、ちょっとキーッとなると、旦那が「あんまり細かいこと言うな」となるから堪えるようにしています。子どもだって悪気があってやっていることではありません。でも、そういうことを考え出したら止まらなくなるわけです。それは私だけでなく、みんなそうだと思います。
その部分を自分なりに調節というか、折り合いをつけていく。そういうことを考えながら生活をするのが、当たり前になってしまっています。

ーそういうことで、ここ最近のまわりとの温度差は、、

西脇 そういうことでしたら、今まで県内に残っている、もしくは一度も県外に出ていない人たちとは、大きくあります。逆に言うと一度でも出ている人たちというのはもともと関心と意識があって、そこにはでも、出たくても出られなかった人たちももちろんいます。
ただ、大きく福島県民を分けると、外に一度も出ていなくてもすごく関心が高くて今も生活されている人というのは、本当に一握りだと思います。だいたいは、本当に気にしないか、もしくは気にしなくなった方々ということだと思うんです。
ただ、私の場合は子どもを米沢の幼稚園に行かせていたり、保養にも行ってその関係の繋がりがあるので、そこにはだいたい避難して戻って来たお母さんたちがいます。米沢は、最近やっと高速ができましたが、行き始めた頃は高速もなかったですし、高速ができても片道50分くらい、山を越える時はトンネルを7つ抜けるので大変です。でもそのおかげで、だいぶ救われました。
そういうことなので、そこに来ているお母さんたちはみんな関心が高くて話せる場所があるし、ふくしま30年プロジェクトのような団体もあれば、あとは避難して戻ってきた仲間もいます。だから私には、「話す」ということに関してのストレスはありません。でも学校ではまったく話さないし、たぶん実際に保養に行ってるのはウチの子どもくらいじゃないかと思います。

ーたまたま保養で、学校の友だちとか親御さんに会うということもない。

西脇 ありません。子どもに聞いても「たぶん誰も行っていない」と言うので、私からは学校では一切話しません。かといって子どもが他の子どもに何か言われるということもないし、ただ本人が5年生にもなってくると、「学校の行事に行けない」みたいなことも起きてきて、「保養もそろそろ潮時かな」と思っています。


福島市の西方にそびえる吾妻連峰

ー一度県外避難した方が戻ってきた時の、居場所がないといった問題はよく耳にします。

西脇 たしかにそれは、よく聞きます。でも私が怖いからなのか(笑)、私自身もそういう流れにはもっていかないというか、そう捉えないし、そういう目に直接あったことはありません。そこは、私はたぶん「捉え方かな?」と思っています。
もしかしたら自分に威圧感があるのかもしれませんが、でも私が思うのは、もしそういうことを言われたとしても「許しちゃうんじゃないかな?」ということです。だってそのお母さんだって被害者なわけですよね。出たくて出られなかった人が、出た人に対して、私だってもし出られていなかったら、絶対「羨ましい」と思ったと思います。
実際にそう言われたこともありますが、でも私の避難生活の話を聞いて、「実際はそんなに大変なの?私にできたかわからない」と言ってくれた人もいます。だから、話さないと人のことはわからないし、私にも今までは「出られなかった人の気持ち」を考える余裕もありませんでした。その部分はこれから話せることだと思います。
それが、一回出て戻ってきた、自分の経験からの気持ちです。

ー他の方々の気持ちまで想像する余裕ができてきたし、家でも旦那さんや家族の理解があった。

西脇 旦那は基本的に超楽観タイプなので、もし私が気にしなかったら何も気にしていないと思います。だから、本当に私次第。ここまで私が思うようにやらせてくれましたし、今もやらせてくれるんですが、とはいえさすがにあまり神経質なのは好みません。
実際に「これはやっぱり、離婚する人の気持ちわかるね」と言われたことはあります。こういうことでいざこざとか、喧嘩して、ウチでもそうなりかけたことがありますし、旦那は実は私が今日のような取材を受けるのも嫌いなんです。
TVに出た時も「家の中を取材したい」とのことだったので、それはすごい嫌がっていました。基本的にはそうやって自分のことを曝け出したり、自分の話をするのが好きじゃない人なので、そういうことで一度喧嘩になって、その時に「離婚する人の気持ちもわかる」と言われたんです。
もちろん、そこの気持ちはわからないでもないので、うまくバランスをとるようにしています。

ーご家族以外で頼りになった存在は?

西脇 避難中はやっぱり、一緒に避難している仲間のお母さん同士が心強かったです。もちろん関西でよくしてくれた方々もたくさんいて感謝しているんですが、当時心を開けるのは避難仲間しかいませんでした。その時のお母さんたちとは今でも繋がっているし、これからも繋がっていくと思います。正月になると6家族とかで、それぞれの旦那さんも含めて集まって、いろいろ思い出しながら「同じ間取りで住んでたよね」って(笑)。
福島に戻ってからは幼稚園の存在だったり、ふくしま30年プロジェクトもそうですし、それに加えて保養にも出るようになって、保養先で受け入れてくださる方々にも助けられています。今受け入れてくださる方たちって、「そのままでもいいんだよ」じゃないけど、すごく寄り添ってくださる感じなんです。
事故直後の頃は少し過激というか、保養先に行くと「絶対福島から出てきた方がいい!」とか言われちゃって、それで行きたくなくなるお母さんがいたということを聞きます。それが今は、いろいろな事情で福島に住んでいることをひっくるめて寄り添ってくれるというか、おかげ様で本当に、もちろん「国や東電がひどい」ということはありつつも、「全国に味方はたくさんいてくれるんだな」って思います。

ー失ったものもありながら、得るものはあった。

西脇 結局は人と人との繋がり、人と人との関係だけなのかもしれません。

ーそういった感覚こそ、それこそまわりの方々と共有できていますか?

西脇 それはあります。保養先で出会ったお母さんたちとかも、皆さんやはり似たことを言っています。「こんなことなかったら出会わなかった」とか、感謝の気持ちもそうですし、これは私だけの特別な話ではないと思います。

幻の避難指示


福島市に隣接する山形県米沢市

ー3.11以降の社会を見返してみて、せめて「あそこがもう少し違っていたら、その後が大きく変わったんじゃないか」というターニングポイントはありますか?

西脇 それは、避難指示の基準が年間1 mSvの積算の被ばくから一気に「20」に上げられた (※1) こととか、そもそもはまず、「福島市が避難区域に入れられなかった」ということでしょうか。
記憶が曖昧になっている部分もありますが、当時、福島市を避難区域に入れるかどうか迷ったけれども、実際に県庁所在地の人口を考えた時「難しい」と判断したということを聞きました。その時に、それが嘘か本当か知りませんが、それは「そうだろうな」とある意味納得に近い感覚がありました。
でもあの時、少しでも福島市の実際の線量を把握した上でここが避難区域に指定されていたら、大きく違ったんじゃないかと思います。結局その後、そこから逆算して、なし崩し的にすべてが「大丈夫。リスクはない」という風に進んでいったので、そもそもはそこの設定がダメだったんじゃないかなと思っています。

ー事故から年数が経って、その間市民の中からも多少なり抗う姿勢があって、どこかしら改善されたと感じる部分は、、

西脇 ないです(笑)。
もちろん、大変だったと思うんです。本当にとんでもないことが起きちゃって、どうしようもない部分ってあると思うんだけど、でも、それでも「何が大事なの?」という、単純なことだと思います。
オリンピックが決まった時は、選手の方々には申し訳ないけど、結果は関西で聞いたんですが、お母さんたちはみんな各自うなだれていました。だってそれは、本来やるべきことに目を閉じた上でそっちなので、自然にそう思ってしまいます。「アンダーコントロール」とか理解不能ですし、お金の使い道もおかしいです。

ー食については数値がおさまってきたことが、心境に変化を与えていますか?

西脇 もちろんそれはあります。でも、そもそも「こんなことなかったら、もっと何もなかったんじゃないかな」と思ってしまいます(笑)。しかし、結局は食べているわけです。学校でも、外食もしますし、どうしてもない時は買ったりもしています。
とはいえ「積算」ということを考えると、「入れなくていいものを入れたくないよね」ということなんです。それはチョビッとでも、私たちはここで暮らしているわけで、そして食べ物は自分で買うものを選べるわけで、それが例え0.0いくつだとしても、よりリスクがない方を選んでいます。もう現状で「だいたい許容範囲」という人もいますが、私は本当に入っていないものが買えるなら、未だに「それにこしたことはない」と思っています。
もちろん、福島の農家さんたちが頑張っているのはわかります。私のまわりにも親戚にも、農家さんも果樹園もいるのでわかるんですが、その方たちに言っているんじゃないんです。
もっとそもそもの、「安全のための態勢」というものがあるはずです。国が測ったって、それが市であっても検出限界が高過ぎて、基本的には論外です。だから、30年プロジェクトのような市民測定所がなくなるとしたら困ってしまいます。
やっぱり、極力、「入っていないものを食べさせたい」ということは消せないです。

ーこういう測定をもっと「したかった」、「して欲しかった」というのはありますか?

西脇 尿検査は、まわりでやっている人もいるし、必要性もわかるんですが、怖いんです。それは、「出るだろうな」と思っているので。そして、したところで「これだけ入っていました」と言われたからって、今の生活は福島に住んでいる限りは変えられません。他の人のを見ていても出ているので、別に測らなくてもいいと思う。
でも、もちろん測って「知っておく」、「データを残しておく」のは大事だと思いますし、この先きっかけがあったら測るかもしれません。

ー甲状腺検査は、いかがですか?

西脇 私は保養先でしか検査をしていません。それは「県にデータを採られたくない」という不信感と、これは私の憶測ですが、何かあった時に全部県立医大でしか治療ができない、病院を自分で選べないのではないか。そして、「それが嫌だ」ということがあります。
学校ではやはり話しませんが、そもそも全体的には、まったく意味がわかっていないお母さんの方が多いと思います。大半の方々がただ、甲状腺検査を「学校でやる」という日に受けさせて、結果として「何でもない」と思ってるんだと思います。

内と外


2018年度に行った流通品測定プロジェクト

ー今、一番楽しいことは何ですか?

西脇 一番と言われると難しいですが、そこはやっぱり人で、友だちや家族と集まることです。今日はこういう話をする場だと思って喋ってきましたが、普段は気楽に笑っています。でも、ここまで事故後の矛盾の骨組みができてしまうと、もう消せません。
特に子どもは、とりあえずは元気に成長してくれていますが、やっぱりついてまわる心配があります。私だって自分自身を「ちょっと楽観主義やしないか」と思うこともありつつ、だからといっていつまでも泣いては暮らせません。
このまま「福島に住み続けます」と言うのも、ちょっと違和感があると言えばあるんです。でも、「きっとそうなるんだろうな」と思っています。もう、例えば尿検査で数値が出ても、「じゃあ住む場所をまた変えます」とはなれません。もちろん何があるかわかりませんが、「避難するのは疲れた」というのが正直なところです。

ーお子さんの大学については考えていますか?

西脇 その話は結構、他のお母さんとの話にも出てきます。結構みんな「もう、大学で出すから」と言っています。私の場合は自分が好きで東京に出たので、そういう母親に育てられてたぶん子どももそうなると思いますし、現に娘は今から東京に興味津々です。保養にはたくさん行っているので、すでに県外をたくさん見ているということもあります。
もちろん放射能の意味はあるんですが、でも「それだけ」と考えると悔しいので、やりたいことを自分で見つけて、自分で選択して欲しいです。「どうしても福島にいたい」と言われたらそれはそれで考えますが、寂しいけど外に行ってもらいたいと思っています。
しかし、「絶対大学に出すから」と言い切ってしまうのは、それがもし放射能だけがその理由だとしたら、寂しいですよね。

ー市民測定所との関係から見えてくる福島はありますか?

西脇 「ふくしま30年プロジェクト」は、私が関西に行った後にできましたが、ありがたいことに学生時代からの親友が参加していて、当時からいろいろ情報を聞けていました。それがあって、福島を見る目が、他の避難しているお母さんたちとは違ったかもしれません。そこから直に聞く数値が、「思っていた以上に低い」ということもありました。

ー政府の対応は、結局初動の間違いが今にまで大きく響いているような気がします。

西脇 事故最初のひと月は、空間線量で24 μSv/hになった日もあったわけです。結局それで、自分を責めているお母さんたちがどれだけいるかという話です。給水で水を求めて、子どもを連れて並んだ時が実は一番高かった。その頃ラジオでは繰り返し「大丈夫、大丈夫」と言っていたわけで、普通のお母さんたちに実際の状況を知る由はありませんでした。

ー当時、県のアドバイザーに送り込まれた2人による、「10 μSv/hあっても、外で遊んで大丈夫 (※2) 」という話が市政だよりに、オフィシャルに出ました。

西脇 ああいうことが行政に対する最初の、信頼が失われる方向へ、決定的に行くことに拍車をかけることになった事例と思っています。そして当時あれを見て、本当に「大丈夫なんだ」と思った方は多くいたはずです。
それはとても罪なことです。
そのアドバイザーのうちの一人が、ある講演で「大丈夫です」と言っているのが、福島のラジオで繰り返し繰り返し流れていて、本当にお経みたいに聞こえてきたのを覚えています。
私は子どもが生まれる直前で、当時は新潟と病院を行ったり来たりしている頃でした。車の中であのラジオを聴いて「この人、何てことを言ってるんだ」と思いました。でも実際に私のまわりにも、あれを聴いて「大丈夫」と思ってしまった人はたくさんいたんです。あれはとても罪深いことだったと、今でも思います。

2019年8月30日インタビュー



※1 ふくしましがひなんくいきにいれられなかった【福島市が避難区域に入れられなかった】
2014年3月11日に、ローカルテレビ局の福島テレビが特番『FTV報道特別番組』内で、「もしも福島市に避難指示が出されていたら人口30万人 検討された避難指示」として放送しました。ここでも菅直人元総理から暗に、福島県側が避難指示に抵抗を示したことが語られます。

※2 菅直人元総理「当時はですね、まだ、かなり後までメルトダウンは起きていないというような方向でしたから、実は当時の認識以上に危ない状況だったわけです。
一方で、厳しい基準で避難してもらいたいという思いと同時に、一方で、やはり地域社会が、こう…、なんていうかな、成り立たなくなるというですね、そういう心配を、あの、…県の中のみなさんも持たれてましたので、やはりそういうところの判断は、あの非常に、あの苦しみました」

※3 福山哲郎元官房副長官「もし線量が飯舘や川俣のように高い場合は、躊躇なく福島市も避難指示を出してたと思いますし、お願いをしていたはずです。
ただそれはあくまでも、一部、点としての高いところはありましたけれども、面として高かったわけではないので、そこは避難指示を思いとどまったというのが当時の、僕は考え方だったと思います」