3.11を語る

澤田和美(NPO法人福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会福島事務局長)

さわだかずみ
NPO法人福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会共同代表。看護師。

児童養護施設の事情

澤田 もともと私は看護師として、「児童養護施設」に関心がありました。ですので、東北の大震災や福島の原発事故の後、被災地の児童養護施設がどうなっているか気になっていたんです。
2011年の夏は「節電」で、教えている大学は早めの夏休みとなったので、被災地を訪問しました。1つの目的が児童養護施設の訪問で、各地の施設に連絡しながらプランをつくっていると、青葉学園を紹介いただきました。それで、忘れもしない8月15日、見学のため現地を訪れたところ、園長自らが放射線量の測定をしていました。
看護師は一応放射線医学について基礎的な勉強はしているはずなのにも関わらず、自分が何もわかっていなかったことがわかりました。園長先生が、「私たちは自主除染をしないといけない状況だ」と線量計を見ながら言っているのを聞き、慌てて放射線医学の専門家から教えを請いました。そして「とんでもない状況だ」ということがわかり、その青葉学園を支援する募金の呼びかけを始めました。これが最初の福島での活動となりました。

ー被災3県の現場を見てきた中で、一番大変な状況にあった。

澤田 私はちょうど娘の就職も決まり、翌年から学費を稼ぐ必要がなくなるので、タイミング的にサラリーマンを辞められるし、発災後は「あ、これは被災地のために何かしなければいけない」と思って、自分にできることは何か考えていました。
キーワードは「児童養護施設」で、他の被災地はいつか変わるだろうけれど、この「原発の問題はずっと続くだろう」と思っていました。そしてそれは医療的な部分に関わることで、私は看護師であるし、他の岩手や宮城での地域再生には「私だからできること」はないだろうが、こういった医療的なことであれば「私にもできることがある」。そう考えていて、その話をポロッと友人にしたところ、彼女も大ノリで、「私も何かしたかった。これだ!」となって、2人で青葉学園に通い始めました。

ーそもそも「児童養護施設」にこだわる理由は何ですか?

澤田 児童養護施設は、昔は戦災孤児が生活する場所でした。今は親が育てられない、虐待を受けた子どもやそもそも親がいない子ども、あとは親が精神病や知的障、または刑務所に入っている子どもが生活しています。他には、子ども自身に発達障碍とか、育て難さがあるので虐待を受けるという、そういった子どもたちが入所しています。でも外には出せない個人情報満載なのが、児童養護施設です。
当時私は、東日本大震災をテーマとした子ども学会などに行っていたのですが、児童養護施設の被災状況に関連した報告はありませんでした。調べると阪神の時の例も含めて、障碍児(者)施設の避難の話は出てくるのですが、児童養護施設の話は出てきませんでした。それは社会から完全に取り残されていて、それを見つけ出す人がいないという状況と感じました。

ー青葉学園との出会い、が澤田さんの問題意識に繋がった。

澤田 青葉学園は福島市内、吾妻にあるJA直売所ここらの近くにあります。子どもたちは当時約60人いました。福島県内には8つの児童養護施設があって、全部を合わせると450人ほどになります。
児童養護施設から里親養育重視へという厚労省の政策変更(詳しくは「新しい社会的養育のビジョン (※1) 」)によって、県内の施設入所児童は今は350人以下まで減っています。私は、看護や医療が専門だったので、これらの児童福祉に関する潮流を教えてくれたのは青葉学園の神戸園長(現常務理事)でした。

ー最も足りていなかったことは何ですか?

澤田 すべてが足りていませんでした。
児童は行政の措置によって、児童養護施設に入所します。当時(現在は制度変更)福島県は、措置後も保護者の住所に子どもの住所を置いていました。要するに、子どもたちの元の住所にいる親のところにガラスバッジ、ホールボディカウンター(市町村が実施)や甲状腺検査(県が実施)  (※2) の案内が届きます。住民票ベースで、東電の賠償金についても親のところに行くんです。
ですので、児童養護施設に入所中の子どもは常に除外されて、ガラスバッジは配られない、甲状腺エコー検査の受診案内は来ないという状況でした。
私たちは独自で超音波診断装置を購入して、甲状腺エコー検査をはじめました。2011年はガラスバッジについては市がすぐ対応してくれたのですが、2012年は私たちが助成を受けたお金で、1ヶ月間バッジを子どもと職員に配りました。甲状腺検査は2013年8月にやっと、県が対応してくれました。

ーガラスバッジにはその測定方法で賛否ありましたが、そもそもそれ以前の問題だった。

澤田 子どもは「施設の子だ」ということも言いたがりません。でも、子どもたちは実際に取り残されているし、その状況をわかっている子どももいますし、理解できていない子もいます。とはいえ放射能に対しては、子どもたちは自分自身の状況を理解しているか否かにかかわらず、今までとは違う雰囲気を感じとって、配ったガラスバッジをしっかり着けていました。
もっと厳密に言うと、2011年のガラスバッジに関しては住民票ベースではなくてあらゆる方々に配ったんですが、2012年からは住民票ベースになり、施設では「ウチに届かない!」という騒ぎになりました。その直後に開始された県民健康管理調査(当時) (※3) の甲状腺検査の段階では、最初から何も届きませんでした。

ミッション

ーガラズバッジは最初の必死な時だけ、端から配ってくれていた。

澤田 とにかく、児童養護施設の状況がいかに大変だったかという話はお伝えしたいと思います。
私が福島に移住して、任意団体をつくってニュースレターを出し始めたのが2012年3月です。青葉学園から活動を初めて除染費用の募金以外にも内部被ばく、外部被ばく防護に関する活動を始めました。
その活動の母体を「NPOにしよう」と考えて、役員会の組織をつくり始めました。まず、県内で最も古い140年歴史のある児童養護施設がありまず。それは瓜生岩子 (※3) という、会津出身で「日本のナイチンゲール」と呼ばれている方がいて、その彼女がつくった施設で、取り組みにはそこの園長が関わってくれました。
最初に2つの児童養護施設の園長が役員となってくれたことで、その後の活動に対して、信用や信頼が
得られました。それでも「こいつは何者だ」という目ではずっと見られているので、とにかく通って通って通って、特に測定は生データを扱うので、信頼を得られるよう努力をしました。
私は博士号も持っているし教授職もやっていたのですが、そんなものは当時のあの場所では役に立ちませんでした。とにかく現状の被ばく状況を共有するために、最初にやったことは、尿中のセシウム検査でした。

ー福島という保守的な土地で、地縁血縁なく、社会から取り残された児童養護施設に飛び込んでいくというのは、すごいことです。

澤田 だから、やりがいがありました。というか、当時の仕事を辞めたかっただけでもあります(笑)。実際のところ、私には常に「何のために博士号を取ったのか」という問いがありました。
私の場合の博士号の取得は本当に大変で、母子家庭なので奨学金はもらえましたがそれで借金を抱え、指導教授と合わなくて、それでも大学内の私の指導教授以外の先生方が助けてくれて、なんとか学位がとれました。ですので、その時の御礼を当時助けてくれた皆さんに伝えるには、「これしかない」と思いました。
そのまま大学に残って学部長になったりするよりは、「この大学を巣立ったこの人がこんなことをやっている」という方が、よほど「自分の学位をもらった恩に報いて、世に奉仕できるのではないか」と思いました。
とはいえ、住んだこともなく身内もいない地に住むのですから、それこそ一人温泉に入ってすすり泣き、、、はしませんでしたが、でも、大変でした。
ただ、私は東京が長かったしキリスト教関係の繋がりがあったので、そういった「福島への支援をしたいけど入り込めない」方々にたくさんのお金を預けていただき、おかげさまで資金は集まりました。
福島に住み始めて間もなく、「学校が給食の放射能測定を始めた」ということがありました。それを知った青葉学園の神戸先生が、「ウチは3食子どもに食べさせているのに、なぜウチに測定器を置かないんだ」ということで、県に言いに行ったんです。
県は国産の測定器を、県内すべての児童養護施設に貸与してくれました。でも、食品放射能測定器は精密機器で、環境放射能を遮蔽して測定する必要があり、専用の測定室が必要でした。
その時に私が間に入って、長い歴史を持つキリスト教系の海外医療協力をするNGOから大きな規模のドネーションをいただきました。
そういった、支援を募る時に「施設とドナーをマッチングする」というスキームはかなりやりました。

ー外から現場に入って、福島の方々の苦労ややり方は、どのように見えましたか?

澤田 NPOの事務所をつくった初年度はヒマでした。それは、施設は私のことを「何者なのか?」と思って見ているから、まずは「変なことをしない」ということが大事でした。今だったらもう「あれはどう?」、「これはどう?」、「測定器の正が必要だから寄付をもらえないか?」と頼りにされるのですが、当時は施設からのリクエストもそれほどありませんでした。
それで2012年当時、保養キャンプに引率しました。あの保養の看護師としての引率は強烈な体験で、甲状腺検査を保養中に実施する検査では、児童養護施設の支援では経験できないものでした。
様々なお母さんがそこにいました。それまで私は小児看護をやってきたので、おのずと小児がんの子どもを持つお母さんと接してきましたが、それを思い出させる経験でした。
具体的には、長野県での保養で甲状腺検査があったのですが、そこに「A2判定(甲状腺に嚢胞がある)でも心配だ」というお母さんがいたんです。とにかく、「直接先生と話がしたい」ということで、医師とお母さんが電話で話しました。すると、そのお母さんが電話での説明ではおさまらなくなってしまって、保養受け入れスタッフが電話を代わって対応して、それは本当に、がんの手術を終えて結果がよくなかったお母さんと喋っているような状況を思い出しました。
そういうお母さんもいれば、保養をはしごして自分の自由時間をつくるお母さんや、子どもと一緒に保養に出かけて被ばくを避けようとするお母さんがいたりと、多様な親の態度を知ることができました。

中枢と東北

ーいろいろな現場で、あらゆる矛盾がそこかしこにあることを体感していたのではと思います。その、最も根幹にある原因は何だと思われていましたか?

澤田 放射線に関する情報や被ばく防護に関しては、「ボタンのかけ違い」だったと思います。
その頃私はずっと2つのことを思っていました。
まず一つは「日本の理科教育は何をやっていたのだ」と。つまり、放射線の基礎になる物理学以前の話で、「人は理科的な理解もできないのか」と。それはまるで「バーゲンセールだよ」と踊らされて列に並んでしまうレベルで、いわゆる雰囲気で放射性物質を怖がる人と、バーゲンセールは無視して、我が道を行き今まで通りの生活を続ける人と、自分の価値観を整理してバーゲンセールに臨む人がいるという感覚でした。
放射能汚染下にある福島の人々が、「自分がいる環境はどういう状況なのか」ということを理解しているか否かが、すごく気になりました。
もう一つは、よく「共感性と想像力」と言っていたことです。人間はすごく弱いものなので、「他者(当事者)に共感しながら、当事者でないからこそ想像力を働かせて他者のことを理解しないといけない」ということを、当時すごく思っていました。
私、クリスチャンなので、そういう思考や言葉が時々出てきちゃうんです(笑)。

ー原発への安直な怒りなどとは少し角度が違った。

澤田 私の東京の家の近所には物理学者の方もいて、それでいて「原発反対」とかは言うだけ言って、家では普通に東京電力の電気を使って、さらに電気をつけっぱなし。自分自身はそれくらい問題意識がなく、そんな友人知人に雰囲気だけで同調していた、頭でっかちで何もしない、まったくの”パー子”でした。
あとはもう一組、放射線科の医師夫婦と仲良しで、2012年8月の最初の被災地訪問の後にそのお宅に駆け込んで、全部一から教えてもらいました。それまで私自身、放射線についてはまったく無関心で、医療被ばくについても知りませんでした。
特に、東京電力の、首都圏で使う電気を福島につくらせていたことすら知らないで電気を使っていたこと。これを知らなかったことは、現在の福島での活動に繋がる大きな原動力です。
20代の頃はバックパッカーをしていました。その時代に学んだことは、途上国の貧しさは、私たち先進国の経済的活動や搾取が引き起こしているということでした。だからそれを是正したくてNGOにかかわったり、JICA (※4) での仕事などをしてきたのですが、それでは全然是正できないこともわかりました。
結局のところ、それぞれが自分の生活を変えない限り、そして個々人に「変えよう」という気持ちがない限り、相手もこの状況も変わらないということが信念としてありました。
ですから、そういう「途上国の貧困をなんとかしたい」、「富の不均衡な配分を是正したい」と思っていたことは社会構造の問題である。その構造上の問題が、「こんな目の前にあったんだ」と気がつきました。
東京の繁栄は東北を搾取して成立していた。私が20代の頃の日本と東南アジアの関係性と同じ構造が、目の前にあった。むしろ国外ばかりに目がいっていて、その頃から脈々と地方や東北にあった不均衡な構造、東京をギラギラと明かりで照らす罪を放置して、自分がそのギラギラを享受しながら、「私は何年生きてきたんだろう」と深く考えました。
そして放射線のことも、近所の物理学者の言っていることすら理解しようともせず、「何をボーッしていたんだろう」と。それなのに、ただのうのうと大学の先生をしていたことを恥ずかしく感じました。それが私の行動に繋がっています。

ー過度の中央集権による弊害、、

澤田 でも「中央集権」とかって、つくられてるんですよ。最近、映画『新聞記者 (※5) 』を観たから余計そう思うのかもしれませんが(笑)。

ガーディアン

ー逆にちゃんと機能しているように見えたり、頼もしく感じた存在はいましたか?

澤田 施設の園長さんたちは、ほとんどブレていませんでした。私は、最初こそ「何者か」って試されたけど、最終的に放射線を測ってきて、それはかなり手間もかかるし、現場の負担になってしまって恐縮と思っても、園長さんは「やってくれて、ありがとう」と言ってくれています。
施設の立場としては、「預かっているお子さん」という意識があるわけです。だから、その子たちに将来的に健康被害を与えたくないという気持ちで、私が「データを取って勝手に公表する」人間ではないし、「ちょっと来てすぐどこか別のところに行ってしまう」人間でもないことが一度わかれば、彼らは今でもすごく協力的です。

ー最後の砦というか、一番のしわ寄せがいくところの責任者がブレない方というお話は、せめて安心できます。

澤田 児童養護施設の職員の方は、薄給で誰からもその負担の多さに見合った形での賞賛がない、本当にすごい仕事です。親からもクレームがきても毅然として子どもを守ります。その長である園長先生たちが私たちのことを代弁してくれて、「こいつらはちゃんとしているよ」と、守ってくれているんです。
児童養護施設の先生たちだけではなく、地元の方たち、例えば「ふくしま30年プロジェクト」もそうですが、NPO、企業、商店などが私たちのやっていることがわかるとものすごく味方になってくれて、結構無茶を言ってもいろいろご協力いただいています。

ー尿検査の結果は、可能な範囲で話していただけますか?

澤田 そういう、被ばくに関する子どもたちの検査結果を言ってはいけないんです。だから、園長たちが私たちを信頼してくれています。
言えることがあるとすれば、結局「一回ではどの測定も安心できない」ということ。ただ、緊急の事態は発生していない。一方、私が踏ん張ってここにいる理由は、「この結論(被ばくによって健康被害があるのかないのか)は、継続して検査を続けていかないと出せない」ということなんです。原爆を投下された広島と長崎にしたって、今私たちを支えてくださっているお医者さんたちは、「被ばく者が全員死ななければ放射能による健康被害の結論は出ません」と言うので、それを聞いて私たちは驚きました。でも今は、それくらいのつもりでいます。
原発事故後センセーショナルにいろいろなことをやっている方々がいますが、「あの人たちは違うな」と思っています。

ー信頼できるできないは、その姿勢ややり方で感じることがある。

澤田 というか、あまり人とは比べていません。私たちは「年に一回」と決めたら年に一回やりますし、同時に小児科の看護師として子どもの権利は守ろうと思っています。ですから「子どもが嫌だ」と言った時は無理にはやりません。でも、子どもが「いい」と言ってくれたらやり続けます。そして子どもが自分で決められる環境を整えて、子どもにわかるように説明して、子どもに決めてもらいます。
私たちは小児科の看護師3人で、小児医療には「無駄でも予防する」というのが基本にあります。それは要するに、子どもの場合は「大人が考えうるすべてをやってあげる」のが、医療者の責任ということです。

ーそれを真っ直ぐ守ることができるのは、クリスチャンであることも活きている?

澤田 私たちがクリスチャンであるということは、すごく活きていると思います。
自分自身の姿勢以外にも、活動資金を提供する側(クリスチャンのドナー)も、団体やドネーションの趣旨に合った支援先を探していて、私たちを見つけ出してくれます。私たちが児童養護施設の子どもに直接届ける活動をしていることを気づいてもらえてると、継続して長く支援もしていただけます。

ー実直に動いていることが着実に人々に伝搬し始めている。

澤田 そもそも私、「これは大それたことをしている」、「大変なことをやっている」みたいなことを、あまり思わないんです(笑)。それに何かが始まったり結実する時は、タイミングがよかったりとか、いろいろなことが私の意志じゃないところで重なっていくというか。
これってクリスチャン的な思考なのですけどね。


福島県の児童養護施設の子どもの健康を考える会のリーフレットと報告書

子どもと大人の間に

ー逆に、まだ達成できていないことはありますか?

澤田 これは今後の課題なんですが、子どもたちは卒業してしまうわけです。原発事故当時高3だった子たちは今もう25、6歳になっていて、その子たちのことができていません。
施設で甲状腺エコー検査をやった時は、こちらが交通費まで出して来てもらって、せっかく集まった時にワイワイできるように同窓会的なことをしています。それで、そこに来る子たちというのはだいたい問題はないんです。問題の来ない子たちは、追いかけようとすると連絡が取れなくなっていたりします。
卒園生の中には、夜のお仕事や建築現場で働いている人もいます。そして、中には無保険な人もいます。今度、こういった卒業した人たちを支援する別の法人をつくる予定です。もし今後甲状腺がんを卒園後に発病した場合、もし病状が悪化して困って施設に連絡してきた時に救済できる、「3.11子ども基金 (※6) 」みたいなものをつくっています。
健康被害が出てきた場合に、甲状腺の専門病院の近くに、子どもたちががんのことを勉強したり、一緒に過ごせる施設もつくろうと考えています。それは「マクドナルドハウス (※7) 」と同じような、卒園生が治療を継続できる居住空間をつくるようなイメージです。単に空間や居場所をつくるだけではなく、物品の管理とか「そういうことをしっかりしよう」と気を引き締めています。自分のやることにミッションをそれなりに感じているんですが、甘くない現実もあるということです。
今、施設を定年で引退した園長には、卒園生と付き合うことは「そんなに甘いもんじゃない」という言葉をもらっています。でもとにかく、卒園生のケアをしていきたいです。なぜなら6年後の2026年には、2011年3月に児童養護施設にいた子どもは全員が卒園するからです。

ーいつか足元をすくわれるかもしれないことまで想定しながら、行政を頼るでもなく、動き続けるつもりでいる。

澤田 私は国立大学にいたことがあって、国とか行政とかそういうところがいかに脆弱かということはわかっています。そこは折り込み済みと言いますか、ご都合主義で、施設の園長たちも「一番後回しにされる」、「差別される」と認識しています。
そこはわかっているので、むしろ底辺にいるのを逆手にとり、「私たちもあんたたちのことなんか気にしてないよ」みたいな、行政を当てにせず民間だからできる自由度を上手く利用しながら「『子ども第一』だけは共通だよね」と、ブレずにやっていく感じです。

ー市民放射能測定所の存在はいつ頃から認識されていますか?

澤田 私の元の夫がNGOで勤務しており、バングラデッシュに家族として駐在したこともあって、その当時の繋がりでいろいろな中間支援団体やNPOにお世話になってきました。
車がないと生活できない福島に転居するに当たり、当時(ガリバーが)無償で車を譲渡していることを教わり、いわきでこの車を受け取って、初めて福島市に運転して来た時に紹介されたのが「CRMS市民放射能測定所※8」でした。
お話したように当初はヒマでした。車の運転なんて25年ぶりでロクにできないのに、運転をして放射線関係の勉強会だけはいろいろ顔を出していました。当時はどこも大盛況で、でも私、そこに参加していると独特の雰囲気について行けずに気持ち悪くなって、質問の時間に帰ってました。
私は前職で、学術学会に出ることや講演会などに参加していた時、質疑応答はちゃんと発表に対してフォーカスのされた「互いに尊重し合うやりとり」というかたちで慣れていまでした。だから、福島に来て揚げ足取りというか、変化球の変化球みたいなやりとりに耐えられませんでした。他には、質問のはずなのに演説を始める人もよくいましたので、その時も退室してきました。
客観的な情報をとるのに、『30年プロジェクト』には、いろいろとお世話になっています。また、私が共同代表をするNPOを訪ねてくる福島訪問者を「30年プロジェクト」に案内することも多くあります。
現在は事務所が福島の中心部から離れて、その機会が減ってきてしまいましたが、データで物を言うという私たちのやり方と通じるところがあります。ですので、放射能測定以外にも様々な情報を提供してもらっています。

2019年8月30日インタビュー



※1 あたらしいしゃかいてきょういくのびじょん【新しい社会的養育のビジョン】
平成28年児童福祉法改正では、子どもが権利の主体であることを明確にし、家庭への養育支援から代替養育までの社会的養育の充実とともに、家庭養育優先の理念を規定し、実親による養育が困難であれば、特別養子縁組による永続的解決(パーマネンシー保障)や里親による養育を推進することを明確にした。
(厚生労働省「新しい社会的養育ビジョン」の概要より)

※2 ほーるぼでぃかうんたやこうじょうせんけんさ【ホールボディカウンタや甲状腺検査】
『県民健康調査』の調査内容の一つとして、ホールボディカウンタ測定からの内部被ばくの推計と甲状腺検査があります。ホールボディカウンタ測定は、基本調査の柱である被ばく線量の推計を行うために、福島の全県民を対象に実施しています。そして、甲状腺検査はチェルノブイリ原発事故後に増加した小児甲状腺がんの件から、子どもたちの健康を長期に見守るために、2011年4月2日以降に生まれた、事故当時18歳以下の県民を対象に実施しています。
ホールボディカウンタ測定は福島県から自治体に委託して、そして、甲状腺検査は福島県から福島県立医科大学に委託して実施されています。
 
※3 けんみんけんこうちょうさ【県民健康調査】
福島県『県民健康調査』は、福島県が福島県立医科大学へ委託して実施している、健康調査です。その目的は、東京電力(株)福島第一原子力発電所の事故による放射性物質の拡散や避難等を踏まえ、県民の被ばく線量の評価を行うとともに、県民の健康状態を把握し、疾病の予防、早期発見、早期治療につなげ、将来にわたる県民の健康の維持、増進を図ることです。(放射線医学県民健康管理センター 県民健康調査サイトより)
調査開始当初は『県民健康管理調査』という名称でしたが、2013年10月の県議会での一般質問で管理という言葉が上から目線だという批判が出たため、2014年度から『県民健康調査』に改められました。
 
※4 うりゅういわこ【瓜生岩子】
1829年~1897年。会津のナイチンゲールと呼ばれます。熱塩加納村の油商の家に生まれました。14歳になると藩の御典医をしていた叔父の山内春麗家に行儀見習いに出て、後の慈善活動の基礎となる仏教と堕胎防止の啓蒙思想を身につけます。戊辰戦争では、周囲の人々が反対する中、敵味方の区別なく手当てを施し、献身的に活動しました。明治になると、県内外で子供の養育施設や医療施設の開設に携わりました。社会活動に一生をささげ、女性初の藍綬褒章を授与されました。(会津若松市 戊辰150周年記念事業サイトより)

※5 じゃいか【JICA】
独立行政法人国際協力機構(JICA/ジャイカ)は、日本の政府開発援助(ODA)を一元的に行う実施機関として、開発途上国への国際協力を行っています。
(注)JICA/ジャイカはJapan International Cooperation Agencyの略称です。
(JICAサイトより)

※6 しんぶんきしゃ【新聞記者】
『新聞記者』は、2019年公開の日本映画。東京新聞記者・望月衣塑子の同名ノンフィクションを原案に脚色した、若手女性新聞記者と若手エリート官僚の対峙と葛藤を描く社会派サスペンスフィクション。(Wikipediaより)

※7 えぬぴーおーほうじんさんいちいちこうじょうせんがんこどもききん【NPO法人 3・11甲状腺がん子ども基金】
事故後、甲状腺がんと診断された子どもや家族は、不安やとまどいを抱え、経済的、精神的な負担も生じていました。このような背景をもとに、私たちは一人ひとりの状況を知り甲状腺がんの診断を受けた本人やご家族へ支援をするため、2016年7月、3・11甲状腺がん子ども基金を設立し、2016年12月より療養費給付事業「手のひらサポート」を開始しました。2017年1月にNPO法人の認証を受けています。(3・11甲状腺がん子ども基金サイトより)

※8 こうえきざいだんほうじんどなるどまくどなるどはうすちゃりてぃーずじゃぱん【公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパン】
ドナルド・マクドナルド・ハウス(Donald McDonald House)とは、公益財団法人ドナルド・マクドナルド・ハウス・チャリティーズ・ジャパンにより設置・運営されている、病児とその家族のための宿泊施設(ホスピタル・ホスピタリティ・ハウス)。ハウスの理念は、Home away from home (家庭から離れたところにある家庭)という言葉で代表されていて、家庭から離れていても家庭的な雰囲気のある場所を病院の近くに提供しようとしています。(Wikipediaより)