3.11を語る

赤城修司(高等学校美術教員)

あかぎ しゅうじ
1967年福島県生まれ。1989年筑波大学芸術専門学群洋画コース卒業。青年海外協力隊員として1994年より2年間ブルガリアに滞在して美術教師として活動。現在、福島市在住。


50年後に残す

赤城 写真を撮る上で僕が意識してきたのは、「今に残すんじゃなくて、50年後に残す」ということでした。そういうつもりでいたので、今ノイズや邪魔が入って活動に支障が出るのを避けたのは、自分がそう「判断した」のか「ビビッた」のかはわかりません。
でも「残すことはめちゃくちゃ重要だ」とは、思っていました。だから「ネットで荒れるのは避けつつ、できるだけ残そう」という意識はありました (※1)。

ー何を「残そう」と思っていたのでしょう?

赤城 それは、その「状況」ですよね。
いろいろな意見が出て、その意見が割れる状況なんだけれども、その「状況自体の中で自分が記録できるものを全部」というつもりです。

ー無限にありそうですね、、

赤城 その中で「自分だからこそできる、残すべき役割」という部分は、考えていないつもりで考えてきたと思います。講演会で喋っていて、自分でもいつからそう思っていたのか自分でも意識していないんですが、とにかく「身の回りのことすべてが記録に値するのだけれど、すべては無理」なわけです。ただ、当初の主な記録手段が写真でしたので、「震災前になかったものに自分が気がついたら、全部撮ろう」というのが、最初に思い浮かんだルール的なものでした。
もっと言えば、「震災前と同じく生活していること自体が異常」と捉えてすべてを撮りたかったんですが、そうなると道を歩いてることも含めて何もかも全部です。通勤も通学もすべてになってしまうので、撮り続けるストレージが足りない。それで、「『震災前になかったもの』という基準ならいける」となったんだと思います。
でもそれをいつ頃思いついたのか、事故数ヶ月後なのか、1年後に思いついてそれを喋っていたのか、それさえも自分でわからない、そんな感じでした。

ー撮りたいと思ってるけど撮れないモノはありましたか?

赤城 撮るのは大丈夫でした。勇気がいるのは、撮ることよりも「公開する」ことです。
一応は撮っておいて、「これを50年後に『こんなだったんだ』」というまではできるんです。それよりもそれを「今出すのか?」、「紙に出すか、ネットに出すか?」ということに関して、僕の勇気のなさ、意気地のなさはそこに表れるという気がずっとしています。

ー仰る「勇気や意気地のなさ」を乗り越えて発表にいたる動機は?

赤城 陳腐な答えになっちゃいますが、「怒り」みたいなことだと思います。
もちろんこれは偏った意見になるとは思いますが、この状況でみんなが「大丈夫」、「安全」と言って普通に暮らすということ自体がすごく異常なことと思っていました。その中でマイノリティとして「何かを言う」には、「どう言うか」ということを、ビビりつつ考えつつ、出せる範囲で出した。それも、「本当にチョビッとだけれども」ということだと思います。

ー逆に、それでも公開を躊躇させるものは?

赤城 それは、僕が動物として生まれながらに持っていた、「集団の中にいようとする本来の習性」と、あとは生まれた後に訓練によって培われた「集団の中にいようとする反射的な行動」ではないでしょうか。そんな気はします。

ーそこにある一線を超える時に背中を押してくれるものは何でしょう?

赤城 僕はだって、今も抜け出ていないので全然偉そうに言えないんですが、震災直後はツイートでももっと言いたいことをバンバン言えていました。あの頃は「さっさと次の仕事を見つけないと、ここから出られない」みたいな感じで、「職場の中でどう言われるか」とかそういうことは全部飛んでいました。

ー当時はある意味で逆に、それが生物として生きるために選んだことだった。

赤城 事故自体が「平常に暮らすべきでない」と思わせることだったので、あれがなければ慎ましやかで平凡な家庭の夫であったはずです。そして家庭内であの時に起きた荒波は、僕の講演会の主なネタになっています。
こういったインタビューは、「そのままかたちに残ってしまうのかな」とか、どうしてもいろいろ考えてしまいますね(笑)。

「夫婦」

ーご家庭で起きた波について、可能は範囲で詳しく教えていただけますか?

赤城 それはやっぱり夫婦喧嘩です。「もう辞めて仕事を他のところで見つけるべきだ」、「見つけなくちゃいけない」という僕と、「そんなこと許さん」、「何バカなこと言ってるんだ」という配偶者とのやりとりで、2011年から、ピークは2013年くらいだったでしょうか。その時は「歳をとってこの人とお茶を飲むことはないだろうな」と思いました(笑)。今は普通に飲んでますけど。
それは、時間の経過に対して自分の行動が怠惰だったからそのまま何かを起こすエネルギーがなくて、そのまま「元の居場所にかたちじょう上いる」ということじゃないでしょうか。2011年に子どもと配偶者を引越させて、その5年後、2016年に福島市に戻ってきて一緒に暮らしていると、それはさらに薄まってきています。

ーとはいえ、その5年間は実際にあった期間であると。

赤城 でも、その引越しだってスムーズにいったわけではありません。僕がずっと「引っ越す以外にない」、「こんなところに子どもを置けない」と言っていたのを、配偶者が「何バカなこと言ってるの。早く洗い物して」と言われる日々を一月くらい過ごして、そこであの小佐古教授 (※2) がテレビで涙を流してくれて、その時だけ配偶者にスイッチが入ったんです。「わかった。あの涙は本物だ。子どもを転校させよう」って。
それで僕はそこを講演会の笑いネタにしていますが、「僕の言葉は信じないのに、テレビの親父の涙は信じるのか」と。でも、そのタイミングを逃したら引っ越しはなかったわけです。それで必死に段取りをして、子どもの転校先での登校初日は5月15日あたりでした。
その後、じゃあ「実際に生活をどうする?」となり、小さな意見の衝突はたくさんありました。僕はもともと震災前から育児四コマ漫画を描いていて、育児のドタバタ、夫婦喧嘩のドタバタを描き続けていました。写真で記録できるものって限られていて、一時期で短いですが、当時の様子を漫画としても残してあります。

ーネタには事欠かなかった。

赤城 はい。だから最近の、ご飯を食べ終えてお茶が出てくるような日々にネタはありません。あの震災後たるや、瞬間瞬間がネタでした。
実際には、まだ禍根も残っているのかもしれません。でもこの歳になっての普通の生活において、そこはお互い「できるだけ波風は立てまい」と思うベクトルはあるわけです。そしてやはり2016~19年というのは、どうしたってまわりの動きも沈静化してきます。丼の中でかき回された泥水の上澄みがだんだん沈んできて、だから、今はちゃんとお茶を飲んでいます(笑)。

ー瞬間瞬間がネタだった頃を思い返して、どう思われますか?

赤城 僕はあれを、「事故がなければできなかったコミュニケーションだった」とは思いません。講演会でも喋っているのは、配偶者という存在は「子育て」において唯一最も信用できるパートナーであって、「自分の子どものことを考える」という点において、地球上でそれ以上の存在はいないわけですよね。
あの頃はその最高のパートナーと、片手ではかたく手を繋いでおいて、もう片方の手ではお互いをナイフで刺し合うという、そういうイメージでした。ですから、僕の「ここから子どもを離すことが優先だ」という「許せない線」に対して、向こうは「健康のことだけじゃなく、お金のことも子どもの人生にとって大切。両輪だ」と。「健康の可能性だけで、職がないままこの場所を離れるわけにはいかない。そこは譲れない」という線でした。
これは、他人であればお互いに刺し合わなくていい部分を刺し合ったわけです。当時出会った、英語の「Engage(エンゲージ)」という単語は、結婚を表す言葉であると同時に「戦争を始める」時も使うといいます。つまり、「深く関わる」ということなんです。
それを知って「なるほど『結婚』というものは、プラスに関わることだけでなく、意見が合わないことについても、一番ギリギリの深いところまで関わることなんだ」と思いました。

ー戦争を「破壊の後に誕生があるから良し」とすることはできない。

赤城 そうとは言えません。やはりそれを避けて、平和な時間が続くのであればそれがいいんだけれども、だから「避けられずにそこまで関わった」というのは、プラスな記憶ではないとは思います。「あ、この人とは意見が合わなければ、ここまでこうなるんだ」という、それがわかってしまった体験でした。
その他の社会的な生活レベルでは、もちろんたくさんの妥協があるわけです。でも「家庭をキープする」という点では共に協力的なのが、子どもの将来という点で、「お互いに譲れない線があった」ということなんだと思います。


© Shuji Akagi

「パラダイムシフト」

ーご家族とは別に、原発事故があったからこそ生まれた関係性はありますか?

赤城 僕はたぶん、自分と似ている「類友」情報がすごく少ないんだと思います。自分の当時の行動の基準には、「できるだけ記録する」ということの他にもあって、それはこの件に関しては「できるだけ人と接しない」というものでした。
特に福島市内の人々には、どうしてもこの事故を「軽微なものとして受け止めたい」というバイアスがかかっていると思っていました。だから、他人とこのことについて喋ったり情報交換をするたびに、僕はその生まれながらのプログラム、生まれてから訓練されたプログラムによって、自分が「そちらの方になびくだろう」、「なびかざるをえないだろう」と思っていたんです。
だからこれだけの状態で、「自分はこうしなくちゃいけない」ということに対する行動を続けるには、「スパイになった」というか、まわりは全部「考えの違う異星人」ということでやっていかないと、自分の行動を「維持できないんじゃないか」と考えていました。

ー予想外な、異星人でない方との出会いはなかった?

赤城 あれは、これ以上ない地殻の大変動が起きた経験だったというか。つまり、今まで友達だと思っていた、趣味が合う、考え方がある程度一緒と思っていたような基準がまったく通用しない、趣味が同じでも考えが正反対だったり、まったく縁がなかった人にも考えが同じ人が現れたり、それがゴチャゴチャになったんです。
今までは水平軸で人と付き合っていたのが、突然垂直軸で付き合うことになるというか、まったくの別基軸で、言ってみれば総入れ替えをした感覚でした。
美術の関係者にもまったく相反する両方の考え方があるし、美術と関係ない、例えば海外の人にも両側の方々がいる。当然この世界においては自分が中心ですので、僕はそのままで、まわりがガラッと変わったように感じました(笑)。


ー見え方そのものが変わった。

赤城 「見える」という話になると、美術にも絡んでしまっていろいろなレイヤー (※3) に話がいっちゃいそうです。だってそれは、道端の草が突然ただの雑草でなく、汚染物になってしまったという話なんです。昨日まで花壇に生えてた花がもうただの花ではなく、表面を触ればそこに放射性物質があるわけです。ーそれは土もそうで、汚染物としてそこにそれが存在しているのは「ファクト」です。

赤城 何年くらいまで続いたか、しばらくの間は自分の足の裏が許せないというか、人間は常にどこかに立たなきゃいけないわけじゃないですか。そういう意味では、それだけ前提が変われば人付き合いも変わるということなんです。それに対してどう思っているかが、今度は、自分の他人との関わり方に影響しないわけはない。ただ、普通に教員の「フリ」をずっとしてきて、、今はもう普通の教員になっているかな(笑)。

ーなんとか発狂することもなく、ご自分を保ってこられた。

赤城 途中で「オレ、狂ったかもしれない」と思った時もあります。まわりがそういう状態で、僕一人がこう考えているというのは、自分は「狂っていないつもり」だけど、実質「狂っているのと同じだよな」という。そこで、本当と嘘との違いはないというか。
本当に安っぽい例えですが、カフカの『変身』 (※4) ですよね。グレゴリー・ザムザじゃないけど、僕がこれだけ力んで一人でこうやってるというのは、つまりは「狂ってるということかもしれないな」とは思いました。


「アートのフリ」

ー写真や漫画など、クリエイティブな活動は精神の安定を保ってくれましたか?

赤城 僕は、思っていた範囲の美術活動はすべて捨てたつもりでいました。田舎からちょっと東京の公募展に出したり、そういうものに対して、その後自分がとった活動はまったく美術ではないつもりでした。
僕の狭い、古い「美術」とか「表現」というエリアの小さな概念があって、それらでは全然ダメだったんです。だからこそ、自分にとっての「美術」ではないつもりで、それは公募展にもコンテストにも出そうとしていない、それこそ「50年後に向けて」の表現と言いますか、それを実践してきました。

ーそちらの方が圧倒的にピュアな表現と言えるかもしれない。

赤城 そう言うと、格好良過ぎますけどね。
40くらいになって「このままオレ、何もしないのもな」という気持ちで、たいして乗り気もしないけど「東京の公募展に出してみるか」とか言って、ヨタヨタと出し始めて2、3年目でした。それで3月に原発事故が起き、その公募展の締め切りが夏頃で、5、6月には描き出さないといけないんですが、1日くらいは描いてみたんです。
それも今までみたいな具象のやつじゃない、恥ずかしいんですが、今までやっていないモデリングペーストを画面に「グシャッ」と投げつけるようなことをやってみて、その飛沫がムチャクチャ安っぽかった。震災を受けたから、今までやってみなかった絵の具をぶつけてみたみたいな、「ダメだ。こんなことやってる場合じゃない」と思って「もう出さない」、「美術はやらない」と決めました。それで「写真を撮る」となったのが4、5月だったと思います。

ーその時を境に、筆ではなく、カメラを選ばれた。

赤城 大変お恥ずかしい話、大学で写真のすごい大家の先生の授業をとったのにまったく目覚めず、30過ぎて子どもができた頃に世の中の一眼レフの値段がガーッと下がって、「買ってみようかな」となって、本当に素人として「子どもの写真を撮りたい」というモチベーションが発端でした。
美術出身者としてはお恥ずかしいアプローチでやってきて、それこそ写真を整理するソフトとか、カメラの台数だけはやたらあったので「何かを記録する」、「何でどう記録する」という時、一番素早く反応できる道具ではあったんです。 
自分の中では、本当は写真だけでなく「この、毎日夕方5時からやってる地方TV、全部録りたい」とも思っていました。だって事故直後から「希望の芽生え」とか言って、赤ちゃんが生まれたところとか元気なところばかり強調するわけじゃないですか。「これを全部録りたい」と思っていたので、「録り逃したものの方がはるかに大きい」とずっと思ってはいます。

ー壮大なコントに見えた。

赤城 他にはチラシや新聞とか、僕のイメージでは、それらは戦時中の壁のチラシや新聞、ラジオ放送も、すべては当時の日本社会全体がどういう価値観を表面上共有していたかという有り様を伝える、歴史的な資料だと思うんです。
戦時中に全員で「一億玉砕」と言っていたことと同じように、福島で局地的に、この事故に対して社会全体が表面上「こう言っていた」ということは「すごい資料だ」ということを、ずっと思っていました。

ー他に、先生のように記録を残している方はいないのではないでしょうか?

赤城 たくさんの方が、飯舘村にしろ、帰還困難区域には入っていますよね。人がいなくなったエリアにはジャーナリスト、フォトグラファー、アーティストたちが入っています。

ーそれらは短期で取材する上での、「問題が凝縮しているエリア」と言える気がします。かたや先生は、日常の生活を広くアーカイブされている。

赤城 最近は2011年、12年、13年くらいのピークがだんだん下降してきて、撮ってるものにしろ撮り方にしろ、「惰性になってるな」という感覚はあります。それは「しょうがない」と思いますし、緊張感が保てなくなったら普通に「やめる」でいいかなとも思います。
今も街中にわずかに残っているものを撮るけれど、でもそこに以前のような緊張感はない。むしろ撮り方とか撮ってるものがパターン化して、強さが弱まっていくことも「何かを反映はしている」とは思います。その中で、せめて「アートのフリだけはすまい」と思っています(笑)。

ーアートのフリ?

赤城 この前福島大で喋った時も、大学の先生にそこに引っかかられました。「それを警戒します」みたいなことを言ったら、「なんで、なんで?」と聞かれました。
それは、そこのフォーマットに入ろうとした途端に、「撮っておくべきものを見落としちゃう」ような気がするんです。そういう意識はあります。
ですから、2011年に出さなかった公募展が秋に行われて、出さなかったし観にも行けなかったけれど、「今年の図録を送ってもらえないか」という連絡をしたんです。それで一部送ってくださったんですが、公募展では、全部の作家がほとんど昨年と同じような作品を出していて、「出さなくてよかった」と思いました。「東京でやってる展覧会って本当に何も変わらず、同じことやってるんだ」って。
それは、それこそ「アートってこういうモノだ」と思っていることに、自分から合わせちゃうことになるというか。本当に「記録しておくべきもの」から、アート側に行くために「大事なものを全部取っちゃう」ようなことをしてしまうんじゃないかと思ったんです。

ー先生が仰っているのは、日本社会で「アート」と呼ばれているものの特性と言いますか、、

赤城 そこは定義が難しい部分ですね(笑)。
誰だったかを覚えてないんですが、僕が「何をやっても安っぽい感じがする」と言ったことに対して、「それはその通りだ」と言ってくれたアーティストの方がいました。日本の枠組みだけではなくて、もっと尖ったことをやっている人にしても「このことにどう反応するか」という、それは僕の言うアートの枠の方がずっと小さいというか、そんな気がします。
いろいろなミュージシャンが福島に来てくれて歌って応援して、「私にできることは歌しかない」みたいなことを言うんですが、人が溺れている時に「私にできるのは歌だけです」という、そういう問題ではないはずで(笑)。
そこは飛び込むか、人を呼ぶか、ロープを渡すか、なまじ「アート」という括りにいたからこそ、想うことがありました。


コラッセふくしまにて


「伝えなければ無いのと同じ」


ー逆に頼もしく感じた人や事象はありましたか?

赤城 「あ、自分と同じだ」と思う人はたくさん、もちろんその方々は社会的にはマイノリティだとしても、出会ってはいます。そして、事故直後からできるだけ「地理的、時間的に遠いところの方が意見が合うだろう」と思っていたことはあります。
また、「近いところで意見が合う人」というのはすでに行動を起こしていて、自主避難をしたり何らかのアクションをされています。かたや近い方々は似た場所にいる以上、職場とか何かで出会って話をした時、本当に「自分がどのくらい思っていることを話しているか」というと、実際そこまでは話していないんです。
職場で一切事故のことを話さなかった同僚の中にも、たぶん僕と似たような人というのは、僕が思ったよりもたくさんいたかもしれない。
それが「福島の人」というとすごく少ないかもしれませんが、大学の先生とか市民活動をやってらっしゃる方とか自分の考えを表に出している方々はいて、その存在にもちろん勇気づけられたんですが、どう見ても社会的にはグッとマイノリティでした。それで自分の「住むところと職業をどうする?」という問題も、「とりあえず今まで通り」みたいなかたちに落ち着きました。
でもこれも、4、5年前に話すのと今話すのとでは、全然違うかもしれません。だって今日も話していて、「ちょっと昔のことを話している」感覚はあります。

ーこういうことが「昔のこと」に感じらるようになった節目はありますか?

赤城 それってたぶん、社会のまわりの状況が「こういう出来事があった」というよりも、例えば「家族が戻ってきた」、「自分の職場が変わった」とか、そういうことで気持ちのリズムは大きく変わっちゃう気がします。
だから僕にとっては会津にいた家族が2016年の春に戻ってきて、僕自身も職場が、この春に震災の時にいた学校から白河の学校に転勤したんです。そうなると震災後、僕もいろいろなことをやっていろいろな態度をとって、引きずってきたところからリセット、リフレッシュして、0から関係を築くわけじゃないですか。そうなるとやはり、震災の影響を受けた場所とは違いますよね。

ー結局、元の職場の周辺で先生の発信を知っていた方はいなかった?

赤城 ちょうどこの間卒業生が遊びに来て話したんですが、僕の場合「職場の軋轢」とは言っても、震災直後に校長とちょっとやり合っただけで、しかもそれも「生徒をどうする」という話にもいけなかったやりとりなんです。
僕の考えは、「この土地がどのくらい危険か安全かわからない時点で、間違いなく安全な場所に行くべきだ」というものでした。でも、例えば僕がそれを職員会議で挙手して、「この場所で学校をやることを反対です」と言ったところで、校長が、福島県がその地域を避難地域に入れていない時にその意見を受け入れて、「わかりました。全員で新潟でも愛知でも、安全なところに行きましょう」と言って、場所を探せるわけはないんです。
校長には「その意見を受け入れます」という能力がなくて、僕も手を挙げて言う前にそれがわかる。そうなると僕は、「言ったけれど受け入れられませんでした」と手を下げて、「学校として受け入れられるところに働きます」と、つまり「辞めます」と言うことが筋が通ってるわけです。
でも辞めると僕の収入は絶たれて、家族の収入が半分になります。だから僕が会議で言ったのは、始業式と入学式を何日間延ばすかということに関してであって、学校の運営に関しては踏み込めませんでした。
あの頃について、「組合の先生も何も言わなかったのか?」という質問もあします。でも組合の活動って、学校の労働環境に関しての意見は言えるけど、学校が「あるべきか、ないべきか」ということに対しては、それは自分たちで触れられる議論の土台ではないと思うんです。
僕が「ちょっとぶつかった」というのは学校の運営上の話で、ただ「職場でぶつかった」と言うと話のネタにも震災後の描写にもなるんですが、もっと印象的なことがありました。
それは、僕が僕の活動について職場で一切言わないと、他の人も一切言わないということ。だから、その他の人がどれだけ感づいていても、僕が言わないと、誰もそのことについて誰も触れてこないんです。それは僕にとって、興味深かったです。

ー先生が何も言わないと、先生のSNSでの発信を誰が見ているか、写真を撮られていることを知っているか、何もわからない。

赤城 ですから、その5年くらい前の生徒が遊びに来て、その頃僕は一応コンピューターを使うアート的な「メディア・アート」コースを持っていました。当時、生徒たちが僕を見つけて「私たちのコース担当の赤城先生ってこんなことやってるんだ」って知っていたらしいんです。でも、卒業までそのことを誰も言わなくて(笑)。それを、やっと卒業してから言ってきて、その時にやっと「フォローしました」という。
だから僕が思ったのは、秘密って「自分が守る気だと守れる」というか、「自分が言わないとまわりが遠慮して言わないものなんだな」ということ。他に職員も、数人ポロッとこぼすように言った先生はいるんですけど、それだけですね。僕も深追いはしていません。
それは、福島市内にある県立美術館の除染を撮っている頃でした。職場では入試の監督をその先生と2人でやって、入試を終えて試験の部屋から出てそれぞれの場所に戻る時、「先生、昨日美術館に行っていたんですか?」とフッと言われて、それも別れるタイミングだったので僕も「えっ?」と振り返って(笑)。ちょうど毎日美術館の除染の様子をアップしていた頃で、それはそれこそ50年後の海外の人たちに届けるつもりでやっていたことです。
あとは当時の学年主任が、それは県からの指示でひどいのがあって、教員の負担がただ増えるだけみたいな、みんなで「こんなのやってられないよ」と言っていて。そうしたら「赤城先生、もうこれツイッターで言ってよ」、「えっ?」みたいな(笑)。その時は「何言ってんの、みんな知ってるんだから」と言われてそのままとか、そういうこともありました。
ですから、僕はまわりがどのくらい知っているか、厳密には全然知らないんです。

ー推察するに、かなり皆さん知っていたような(笑)。

赤城 でも、その受け取り方がプラスかネガティブかは、わかりません。プラスに評価してくださってる方もいるかもしれませんが、「福島の悪いところを出すのは許せん」みたいな人もいただろうなと思っています。
直接「けしからん」と言われたことはないですが、唯一、これは隣の家のお母さんに「赤城さん。ああいうのはやめた方がいいと思いますよ」と、ボソッと言われたことはありました(笑)。
そもそも社会での普段のコミュニケーションって、表面を「いかに円滑にするか」ということであって、野球好きな人には昨晩のナイターの結果を話したり、その人その人に合う話をしているだけで、本当のコミュニケーションって結局「ほとんどしていないんだな」と思いました。


福島市中心部に位置する信夫山。そこに設置された除染土壌の仮置き場。 © Photograph by Shuji Akagi

「甲斐」

ーうまく言えないことですが、状況が落ち着いてきてご家庭も職場も平穏で、でもそれは被写体の減少も意味して、ある意味での「物足りなさ」を感じたりすることはない?

赤城 答えとして噛み合っているかわからないんですが、東京の大学の先生やアーティストの方々と原発付近の視察に行って話をしている時に、「この事故がなかったら皆さんとも会ってないし」みたいなことを言ったら、「それってめちゃめちゃポジティブな受け止め方ですよね」と言われたことがあって。
それって僕がアートを警戒する文脈と一緒で、事故後のそういう時が「アクティブな活躍をしていたハリのある時間だ」と思うのって、何というか、「自分の名声欲みたいなものに対する誘惑」という感覚があります。
「どこかに問題や不幸があっても、そういうハリのある状態」がいいのか、「何もないけど平穏で、ハリのない状態」がいいのか、考えてしまいます。
僕は職業柄美術の教員で「美大に行きたい」という生徒と話す機会もあって、やっぱり制作中に悩むこともあるわけじゃないですか。制作に対して苦しむわけですが、その意欲の「何割が創作欲じゃなくて、名声欲なんだろう」ということも考えます。

ー「名声欲」は悪いものですか?

赤城 わかりませんが、これは僕個人の「アートに対する勝手なイメージ」なのかもしれません。でも、「本当にやるべきこと」よりも意外に、「これよりもアートなフリをしよう」とする部分はあるかもしれません。

ー「無垢な創造欲」が尊くて、そこに名声欲が入ると汚れてしまうというか。

赤城 それもどこか、偏ったものなのかもしれません。
震災前の、「知り合いといえば職場の教員と親戚」みたいな暮らしと、震災後の、わらしべ長者のように芋づる式に次々と「このアーティスト」、「あの大学の先生」、「この活動家の人」という風に知り合っていくのを比べると、それはすごいテンションだったんだと思います。
その頃交流があった椹木野衣さん (※5) とか、もう同じ美術界でも日頃追いかけていた世界ではないというか、「最初の展示が村上隆 (※6) と誰と誰~」みたいな、「え、え?」という。でも当時は、そういう信じられないことが続いていました。だからここでは何が起きるかわからないし、「僕が追っていることが世界的、歴史的なことだ」ということには同意できたんです。
そうなると、何というか、さっきも言ったように今はテンションが下がってきて当然だと思うし、このテンションを無理やり上げようとしたり、こういう繋がりとか展開の角度とかを維持しようと、、まあ、する能力ももともとないんですが(笑)。そういうのがあったら、もっとアートに野心があって、すでに「そうしていただろうな」と思います。
大学時代、先輩たちが星取表をつくっていたんです。「何々公募展」、「何々コンペティション」みたいな、それで仲間たちの名前があって、その時は版画コースの人たちが志高めの人たちだったんですが、僕は「誰が何展で何をとった」みたいなその星取表にすごい抵抗を感じたというか、「違うんじゃないかな」という気がしたんです。
でも、そのことは当時口にも出さなかったし、それよりも意識の上では、制作意欲のない、たいして描いてない美術の学生である自分に、負い目や劣等感みたなものを感じていました。
美大を目指す時に「芸大、芸大、芸大じゃなきゃ」ってやってるのって、これは創作欲なのか名声欲なのか、考えてしまいます。でも普段僕がいる職場は、いわゆる「芸大的な価値観」ですべてがドライブされている場所なわけです。だから、もともとからしてわけわからなくなっているというか、だから「スパイでないとやっていけない」というか。

ー結局スタンスはずっと変わられていない。

赤城 緊張感はずっと下がり続けています。だから写真も、「あまり枚数撮るのは邪魔になるんじゃないか」という気もするんです。それは、一番テンションが高かった時のエネルギーで撮り続けているんだけど、惰性で枚数を撮ってると、今度は発掘するのが大変になる(笑)。だから、「無駄な枚数ってよくないんじゃないかな」と思ったりもしています。でもランニングと一緒で、走らない日があると不安になるというか、「このまま走らなくなるんじゃないか」みたいな感覚もある。
だから僕も、最近は撮りに行かないのは逆に不安なだけで、「もうモチベーションは何年も前に切れてるのかな」と思います。

ー無条件に自分がやってしまうこと以外、「これをせねばならぬ」という発想が出てきた時点で必要ないかもしれない。

赤城 だから、汚染土壌が詰まったフレコンバッグをカバーするグリーンシートがなくなれば、それが「なくなった時点の展開の記録にもなるかな」とは思いつつ、どうしたってトーンが下がるのは自然なことかと思います。
でも今日は、もっと具体的な、校長や配偶者との喧嘩の内容とかの方が「読み物にはなるのかな」と思っていました。こういう場ですと、自分が言うべきことを考えながら、同時にもう一つの脳のCPUが「どのくらい格好いいことを言おうかな」というメーターがピピッと動いてしまうというか。
でもたいていこういうような話って、自分を格好良く描こうとする欲求から完璧に解放はされていなくて、「良いところを言おうとする」じゃないですか。それで家に帰って寝る時に、「ちょっと格好つけ過ぎたかな」と思うという(笑)。
そしてその、あの「テンション高かった時が良かった。懐かしい」という気持ちよりは、まだたくさんの、出そうと思って出さないでおいてあるものがあるわけです。これからは、そういうものの「公開に向けて勇気が必要になってくるんだろうな」と思っています。

2019年10月10日インタビュー


生活圏のいたるところにあるグリーンシート。そして、その中にある除染土壌。© Photograph by Shuji Akagi



※1 ふくしまとれーすにせんじゅういち-にせんじゅうさん【Fukushima Traces,2011-2013】
写真・文:赤城修司 発売:2015年3月20日 定価:2,880円+税
本書は、福島市在住の赤城修司が撮影した2011年3月12日から2013年6月22日に至る143点の写真を撮影日とコメントとともに収録している。(オシリスサイトより)

※2 れいやー【レイヤー】
層(layer)のこと。ここでは、ものごとに多層的な意味を見出すことを指しています。

※3 へんしん【変身】
『変身』(へんしん、Die Verwandlung)は、フランツ・カフカの中編小説です。カフカの代表作であり実存主義文学の一つとして知られ、また、アルベール・カミュの『ペスト」とともに代表的な不条理文学の一つとしても知られます。この『変身」における不条理は、主人公の男グレゴール・ザムザが、ある朝目覚めると巨大な虫になっていたことです。作品内では、グレゴール・ザムザとその家族の顛末が描かれます。(Wikipediaより)

※4 さわらぎのい【椹木野衣】
日本の美術評論家、多摩美術大学美術学部教授、芸術人類学研究所所員。美術評論家連盟会員(常任委員)。本名非公開。同志社大学文学部文化学科を卒業後、美術手帖編集部で編集者として勤務。雑誌での執筆などを経て1991年に初の評論集『シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術』(洋泉社)を刊行。 (Wikipediaより)

※5 むらかみたかし【村上隆】
現代美術家、ポップアーティスト、映画監督。有限会社カイカイキキ代表取締役、元カリフォルニア大学ロサンゼルス校客員教授。学位は博士(美術) 東京芸術大学 1993年(平成5年)。日本アニメポップ的な作風の裏には、日本画の浮世絵や琳派の構成に影響されている部分も強く、日本画のフラット感、オタクの文脈とのリンクなど現代文化のキーワードが含まれています。中でもアニメ、フィギュアなどいわゆるサブカルチャーであるオタク系の題材を用いた作品が有名です。(Wikipediaより)


『Fukushima Traces, 2011-2013』
3.11〈以後〉へのまなざし
福島市民が撮りつづける〈日常のなかの非日常〉